今週の一句~流燈(りゅうとう) 寺山修司

流すべき流燈われの胸照らす   寺山修司(てらやま・しゅうじ)

(ながすべき りゅうとう われの むねてらす)

 

寺山修司は歌人、詩人、劇作家であったが、彼の文学の原点は「俳句」だった。

中学時代から俳句を始め、高校時代に「牧羊神」という文芸誌を創刊、また、全国学生俳句会議を結成した。

私の記憶では、前「河」編集長の佐川広治、現「浮野」主宰の落合水尾氏などもこの会に参加していた。

今、充実の活動を見せている80歳前後の世代が、寺山となんらかの形でつながっていた人が多いのである。

うろ覚えだが、こんなエピソードを聞いた。

飯田龍太の元に、寺山修司から連絡があり、学生俳句大会の選者の依頼があった。

龍太はこころよく引き受けて、送られてきた作品を見た。

寺山の作品が他の作品より優れていた。

が…、どれも以前に見た作品であった。

寺山の作品は高校時代より評判を呼び、龍太の目にも入っていたのだ。

龍太はその旨を書き、作品を送り返した。

主催者である寺山が、規範を破っていることに納得がいかなかったのである。

このエピソードは二人の生き方を象徴するようで、好きなエピソードだ。

寺山は早稲田大学入学後、短歌に転向し、以後、時代の寵児となった。

掲句も学生時代の作品。

「流すべき」とは、「流離」の象徴であろうか。

普通、「流燈」というと亡くなった人の魂を慰めるものであるが、(もちろん、この句もそうであるが…)この「流すべき」には、生きる者、亡くなった者に共通する「流離」の思いがある。

そこが斬新。

生きる者も、若者の自分であっても、そして死者も、「流離」してゆくものである、という印象が私にはある。

 

 

 

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