今週の一句~晩夏(ばんか) 

打水も晩夏のひかり阿修羅王    角川春樹(かどかわ・はるき)

(うちみずも ばんかのひかり あしゅらおう)

 

「阿修羅」はもともとは古代ペルシャの神で、古代インドの魔神だった、という説もある。

この神は、仏法の守護神・帝釈天と壮絶な戦いをした。

大事な娘を帝釈天に犯されたから、という説がある。

まあ、もともとこういう説話は創作だから、あてにはならない。

負けても負けても、すさまじい形相で、何十年にわたり、帝釈天と激しい戦いを繰り広げたそうである。

春樹さんの主宰する「河」は「二句一章」を信条の一つとして掲げている。

創刊主宰・角川源義が提唱した。

二句一章にこそ、俳句の醍醐味がある、というわけだ。

この句も二句一章の取り合わせがすさまじい。

「打水の光り」と「阿修羅王」との取り合せである。

俳句はなぜ「取り合わせ」なのか。

これは「二物衝撃」によって途轍もないエネルギーを生みだすからだ。

「取り合わせ」とは「生命」と「生命」のぶつかり合いと考えるべきだ。

だから、すさまじいエネルギーが生まれる。

そのことを忘れてはいけない。

「取り合わせ」は単なる「方法論」ではないのだ。

松尾芭蕉の、

荒海や佐渡に横たふ天の川

夏草や兵どもが夢のあと

暑き日を海に入れたり最上川

などはすべて「生命」と「生命」とのぶつかりあいである。

荒ぶる「海」と「天の川」のぶつかり合い

生命力旺盛な「夏草」と「もののふの魂」のぶつかり合い

燃え盛る「太陽」と「みちのくの大河」のぶつかり合い

これこそが掲句の魅力である。

これらがぶつかりあい、こすれ合い、すさまじい「エネルギー」が生まれる。

それは「命の絶頂」「生のエクスタシー」である。

芭蕉自身も俳句は取り合わせである、と言っている。

発句(ほっく)は畢竟(ひっきょう)、取合物(とりあわせもの)とおもひ侍(はべ)るべし。

―森川許六「俳諧問答」―

俳句とは「生のエクスタシー」と言ってもいい。

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