村上鞆彦「南風」主宰~小澤冗句集『ひとり遊び』を読む

句集『ひとり遊び』を読む   村上鞆彦(「南風」主宰)

 

小澤冗さんと知遇を得たのは、俳句アトラスの代表である林誠司さんが中心となって運営していた同人誌「気球の会」であった。

本集にも「気球の会」に関する前書きの付いた句が収められている。
   「気球の会」のメンバーで横須賀へ
浦賀水道帰燕の空の深みたる
この吟行に行ったのは、もう十年以上も前のことになる。

「気球の会」はその後、ひとまずの役目を終えて解散したが、数名のメンバーで句会は続けていた。

誠司さん、冗さん、日下野由季さん、私……、毎月早稲田の小さな会議室に集まっていたころが懐かしい。

その句会も自然と消滅し、近年は冗さんにお会いすることもほとんどなかったが、このたび上梓された『ひとり遊び』を手にしてみて、ふたたび冗さんの気さくな笑顔に触れたようで嬉しくなった。
以下、私の注目した句について述べてみたい。

一病は一芸のうち実南天
冗さんは、心臓にペースメーカーを入れておられる。

この句の「一病」とはその心臓の病のことだろう。

それを「一芸のうち」と笑いに転じてみせた胆力は流石と思う。

「実南天」の充実した赤色が艶々と美しい。

昼寝覚余生の貌をなでまはす
昼寝から覚めたばかり、まだ意識にはどこか濁りが残っている。

それを拭うように、顔を撫でる。

「余生の貌」にはどこかとぼけたような飄逸味があり、また「なでまはす」はいかにも人間臭い表現で面白い。

一叢はますほの芒罔象女
「ますほの芒」とは、真赭(ますほ)の色、つまりやや赤味を帯びた芒のことを言い、「罔象女」とは、水をつかさどる女神のことを言う。

句意は、野のひとところに、周りとは違う色の芒を見つけた。

そのとき、ふと女神の存在を直感したというふうに解したい。

「ますほ」の色彩から女神を思うその優しい感覚と、余計なもののない簡潔な表現が印象的な一句である。

礁荒る能登金剛の新松子
能登の旅吟だろう。

荒磯の光景に配した「新松子」の青さが匂い立つようで、初々しい詩情を生んでいる。

「能登金剛」の重々しい響きと「新松子」の清新さが好対照をなしている。

石ひとつ積めば下北雪が降る
津軽の風土を詠った句が散見されるのは、津軽が奥様の故郷だったからだろう。

この句、「石ひとつ積めば」から「下北雪が降る」への転換がドラマチック。

を積むというと、賽の河原がまず思われるので何となく寒々しい感じがするが、その印象を援用しつつ、読み手を一気に下北の雪景色のなかへと誘ってゆく表現の呼吸が見事である。

ひよどりの初声にしていつもの木
元日、鵯が鳴いている。ときに耳に障る声ではあるが、正月気分のなかで聞くと、めでたく晴れやかな声に思える。

その鵯がいるのが「いつもの木」であるという点がこの句の眼目。

日常的であること、普通であることのよろしさをよく知っている作者なのである。「いつもの木」という構えのない口語がさらりと使われて効果を出している。

ところで、本集を読んでいると、前書きの付いた追悼句が随所に見られることに気づく。

その対象は、兄、義父、義母、義兄といった身内はもちろん、俳句の師や句友、尊敬する俳人まで、幅広い人々に亘っている。

このことは、冗さんの几帳面さ、義理堅さをよく物語っていると思う。

お世話になった大切な方々の死に際し、心を込めた一句を手向け、深い祈りを捧げる。

それだけではなく、その句を句集に録し、活字にして、あらためて哀悼の証とする。死者から受けた恩を忘れぬためという自分自身へ向けての意味もあるだろう。

冗さんは本当に義に厚い方なのである。

なかでも追悼句の最たるものは、奥様へ向けてのものである。
   平成二十七年三月三十一日、妻・榮子逝く 享年七十四
旅立ちを一と日違へし四月馬鹿
あと一日違ったならば、翌日は四月一日でエープリルフール、すべてを嘘として流せたかもしれないのに……。

無益とはわかっていても、ふとそんなことを考えてしまう、という句意に読める。

句の内面には深い悲しみが潜んでいるのに、表面はそれを悟らせぬような飄々とした軽い口ぶりで仕上げている。

冗さんなりの男の含羞というものだろう。
奥様を亡くしたあと、ひとりとなった冗さんの寂しさはいかばかりのものだったろう。

〈亡き妻の部屋を灯して去年今年(147)〉という句も見える。

しかし、ひとつ明るい材料があるとすれば、それは「娘」さんの存在である。

「娘」さんを詠んだ句は、句集の冒頭から奥様への追悼句が掲載された頁までは、ほとんど見られない。

ところが、奥様への追悼句以降、「娘」という言葉は頻繁に冗さんの句に出てくるのである。
八月や娘らの声する妻の部屋
夏休みで、娘さん一家が冗さんの家に泊まりにきているのである。

以前は灯りをともしてもがらんとしてむなしいだけだった「妻の部屋」に、今日は娘さん一家の賑やかな声が満ちている。

それを聴きながら安らいでいる冗さんの莞爾とした表情が想像される。

最後に、これからの冗さんが娘さんや句友のみなさんに支えられつつ、お元気で俳句を続けてゆかれるよう心からお祈りしている。

いつかまた句会をご一緒できる機会があれば幸いである。

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