今週の一句~雛祭

旅人ののぞきてゆける雛かな   久保田万太郎(くぼた・まんたろう)
(たびびとの のぞきてゆける ひいなかな)
「桃の節句」は古来からある。
が、雛人形を飾る、という風習は近世以降より始まった。
この句の面白さは「家庭風景」から離れた視点で、「雛祭り」を詠んだところにある。
この句の場合、「誰」がのぞいていったかが一句の面白さの勝負となる。
 客人(まろうど)のぞきてゆける雛かな
 子供らののぞきてゆける雛かな
でもそれなりにいい。
しかし、万太郎は「旅人」と置いた。
「旅人」ということからまず「垣根」が見えてくる。
山里など、それなりの大きな民家に飾られたものであることが想像される。
雛人形もあでやかで、どこか歴史を感じさせる立派なものだ。
さらに言えば、庭に面した大きな広間に飾られているのではないかということにも思いが馳せられるだろう。
その庭には梅や桃の花などが咲いているかもしれない。
その風情のある光景に、旅人も足を止め、垣根越しにのぞいている。
そのような、いろいろな風景が読み手の心に浮かび上がらせてくれる、それがこの句の手際の良さだ。

今週の一句~春 松尾芭蕉 

春なれや名もなき山の薄霞   松尾芭蕉

(はるなれや なもなきやまの うすがすみ)

 

芭蕉最初の紀行文『野ざらし紀行』の一句。

前の文に、

奈良に出(いづ)る道のほど

とある。

芭蕉は年末年始を故郷・伊賀上野で過ごした。

そこから奈良へ出て行った。

3月の奈良東大寺の「お水取り」を見に行ったようだ。

柳生の里を通っていたのか、笠置を通って木津川沿いを通って行ったのか。

伊賀と奈良は昔から往来が深かった。

この句が「奈良」だとわかると、「名もなき山」という意味がより理解出来る。

奈良には「名のある山」ばかりだ。

大和三山の畝傍山・天の香具山・耳成山

二上山

生駒山

信貴山

金剛山

葛城山

若草山

三笠山

高円山

三輪山

などなど…、すべてが「神宿る山」である。

全ての山が春を迎え、薄霞を纏っている。

そして、名もなき山(芭蕉が知らない山」も薄霞を纏っているのだ。

大和盆地の美しい春霞の風景が、ありありと浮かんでくる。

「春なれや」などという言葉は現代俳句では使われないが、

春立つや

春来たり

春深し

よりも、詠嘆が深い。

あ~本当に春が来たんだな~。

という印象がある。

 

 

今週の一句~水仙 水原秋櫻子

水仙やすでに東風吹く波がしら   水原 秋櫻子

(すいせんや すでにこちふく なみがしら)

 

 

「東風」というと菅原道真の和歌が思い浮かぶ。

 

東風吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな 『拾遺和歌集』

(こちふかば においおこせよ うめのはな あるじなしとて はるをわするな)

 

「東風」が吹き出したら、梅の花よ、開きなさい…と言っている。

「東風」は春を告げる風で、春の季語でもある。

正東風(まごち)

強東風(つよごち)

朝東風(あさごち)

夕東風(ゆうごち)

雲雀東風(ひばりこち)

鰆東風(さわらごち)

梅東風(うめごち)

桜東風(さくらごち)

などがある。

水仙は冬の季語だが、その清楚で白い花姿は「春遠からず」の印象を与える。

また、水仙はどこにでも咲くが、伊豆下田や越前など海辺に咲く印象が強い。

海のそばで群れ咲く水仙…、その沖には春を告げる風が吹いている。

掲句は「波」ではなく、「波がしら」が上手い。

水仙の白、海の青、そして波がしらの白が鮮烈である。

水仙の白と波がしらの白が呼び合っているかのようだ。

一句に、春の胎動が満ち溢れている。

 

 

 

 

 

今週の一句~雪 石井 稔

 

チョコバナナ立てて浅草雪が降り   石井 稔

(ちょこばなな たてて あさくさ ゆきがふり)

 

「好日」同人。

「チョコバナナ」が俳句で登場するのが珍しい。

しかし、決して奇を衒ったものではない。

高度経済成長期の頃から大きな寺社の境内やイベント会場の露店で売られるようになり、身近なものである。

下町生まれの私としては懐かしい風景…、しかし、今でも容易に見ることの出来る風景だ。

浅草寺の境内の風景であろう。

チョコでコーティングし、カラフルなチョコチップをふりかけた「チョコバナナ」が露店に並んでいる。

しかし、境内には雪が降り始めた。

客足も途絶え、「チョコバナナ」がむなしく(?)並んでいる。

「チョコバナナ」のチョコ色と、「雪」の白の対比が斬新。

「チョコバナナ」という庶民性が「浅草」の風土とマッチしている。

 

 

 

今週の一句~牡蠣 花田 春兆 

剥かれたる牡蠣の白さをなほ洗ふ  花田 春兆

 

(むかれたる かきのしろさを なおあらう)

 

「牡蠣」というと、冬の海産物を代表する貝だが、最近は夏、「岩ガキ」が食べられる。

これがおいしい。

秋田県象潟で岩ガキを食べた時、地元の業者に、

 

岩ガキと牡蠣の違いは何ですか?

 

と聞いたら、「岩ガキは天然もの」なのだそうだ。

それだけに漁獲量も漁獲時期も決まっている。

本当かどうかはわからない。

その人(おばあさん)はそう言っていた。

岩ガキだと「生」か「焼き」がうまい。

冬の牡蠣だと「鍋」もいい。

冬の季語「牡蠣」の副題には「牡蠣割女」(かきわりめ)という季語もある。

水揚げは主に男の仕事で、それを剝くのが主に女の仕事である。

牡蠣に限らず貝は雑菌が多い。

貝を割って、真っ白な身が出て来たが、さらに冷たい水をかけ、なお、洗う。

牡蠣の真白き身がさらに白くなってゆく。

冬の冷気の中、その白さは、乾いた空気に瑞々しさが生まれたかのようだ。

一句の中に、冬の冷気、水の瑞々しさ、牡蠣の輝く白が美しい。

 

 

 

今週の一句~猟 加藤房子

火の匂まとひ漢の猟はじめ    加藤 房子

 

(ひのにおい まとい おとこの りょうはじめ)

 

季語「猟」(りょう)は野生の鳥、獣を、銃・網・罠などを使って捕獲すること。

類似の季語に「狩」「狩猟」「猟期」「猟犬」「狩場」「猟銃」などがある。

「猟」が冬の季語なのは、秋から冬にかけて渡り鳥が飛来し、獣が餌を求めて人目につきやすいところに現れるから、と言われている。

掲句。

「猟はじめ」とは「猟」の解禁日、または、その頃であるから、普通であれば、まだ「火の匂い」をまとっていない。

しかし、すでに、その漢(おとこ)は「火の匂い」をまとっているのである。

それは、その漢の体そのものに「火の匂い」がまとわりついているからである。

いわば、本能の匂いである。

それを見てとった作者の感覚が鋭い。

(句集『須臾の夢』(俳句アトラス)より

 

 

加藤 房子(かとう・ふさこ)

昭和9年生まれ。神奈川県横浜市在住。

「千種」代表、俳人協会会員、横浜俳話会副会長。

句集『須臾の夢』で第21回横浜俳話会俳句大賞受賞。

 

今週の一句~茅花流し(つばなながし) 角川照子

 

 

もう一度茅花流しに立ちたしよ    角川 照子(かどかわ・てるこ)

 

「茅花流し」は初夏の季語。

茅花が絮状になる頃に吹く風のことである。
しかし、私は、「茅花」の群れを吹き抜ける風、そしてそれにたなびく「茅花」の群れと鑑賞したい。

歳時記には、

雨気を含んだ南風を指す

ともあるが、夏の爽やかな風をも私は感じる。

 

掲句は「河」主宰、角川照子先生の絶唱。

句意は字の通り。

照子先生の句はどれも素直で、正直である。

自分の死を間近に意識した時、先生が思い出した風景は茅花流しに佇む風景だった。

夫・角川源義の句に、

 

妻恋へば七月の野に水の音

 

があるが、私は、いつもこの句とセットで掲句を考える。
 
源義が、妻を恋う。
 
その恋しき、照子先生は茅花流しに佇んでいる。
 
そんな風景がいい。

名ある星春星としてみなうるむ     山口誓子(やまぐち・せいし)

(なあるほし しゅんせいとして みなうるむ)

山口誓子というと即物的抒情、硬質な抒情というイメージがある。

かりかりと蟷螂蜂の皃を食む
(かりかりと とうろう はちの かおをはむ)

夏草に汽罐車の車輪来て止る 
(なつくさに きかんしゃのしゃりん きてとまる)

夏の河赤き鉄鎖のはし浸る
(なつのかわ あかきてつさの はしひたる)

こうして見ると誓子の作品は、どの句も一本の鋼のように直立している。
「立句」というものとは少し違うかもしれないが、その「立姿の厳しさ」という点に於いては合い通じるものがあるだろう。

掲句は、それらと比べて叙情的なムードがある。
それはやはり「みなうるむ」という表現にあるだろう。
しかし、この一句の「立姿の厳しさ」は誓子らしい一句と言える。

名ある星とは、金星、火星はもちろん、ミザル・プロシオン・カペラ・アンタレス・アルタイル、そして誓子が結社誌名とした「天狼(てんろう)」つまりシリウスもある。
それら壮大な天体ショーをつかさどる星々が春のあたたかな夜の中で、やはらかな光りを滲ませている。
厳しい寒さのゆるび、それが全宇宙にさえ及んでいるような、大きな力を感じているのであろう。

ようやく春の長雨も終わった。
日中はあたたかくても、夜は急に冷え込む日が続いたが、最近は夜もあたたくなった。
夜空を見上げても寒くなくなった。
掲句が実感として感じることができる。

今週の一句~春風(はるかぜ)  与謝蕪村

春風や堤長うして家遠し     与謝蕪村(よさ・ぶそん)

 

(はるかぜや つつみなごうして いえとおし)

 

最近になってこの句の良さ…というかテクニックに気が付いた。

この句は「堤」=「長い」、「家」=「遠い」という空間が存在する。

どちらも短い、近い空間ではなく、長い、遠い空間である。

それは蕪村の「郷愁」が持つ「空間」と考えていい。

この「家」はきっと蕪村の故郷の家なのである。

 

蕪村の生い立ちには「謎」が多いが、なんとなく複雑であったようである。

その郷愁の思いは、

春風馬堤曲

に集約されているので、それを見てほしい。

 

句オデッセイ~春風馬堤曲

 

「郷愁の空間」への誘うのが「春風」なのだ。

春風に吹かれ、蕪村の体も、そして心も、いや…堤を歩く、蕪村の「体」を置いて、「心」が春風に乗って、その郷愁の空間へと深く入っている…、そういう句ではないか。

そして、その春風はどこまでも伸びやかで温かい。

母の懐のような風なのだろう。

今週の一句~種蒔(たねまき) 中村草田男

種蒔ける者の足あと洽しや    中村草田男

 

(たねまける もののあしあと あまねしや)

 

 

「種蒔く」というと、いろいろな作物の「種」を蒔くのかと思っていた。

どうやら「苗代」に「稲の種」つまり籾殻を蒔くことをいうそうだ。

 

しかし、この句はどうだろう。

一読、ミレーの『種蒔く人』を想起する。

草田男は西洋に対する敬意が強い。

ヨーロッパの詩はもちろん、西洋哲学、西洋音楽にも深い造詣があった。

推測だが、おそらく、この句には日本古来の稲作より、ミレーの『種蒔く人』が念頭にあったような気がする。

私は俳句というのは、このように「自分が信じる美学」によって変貌させてもいいものだと考える。

そうでなければ俳句は芸術たり得ない。

そのことを強く打ち出した、唯一の存在が草田男だった。