名ある星春星としてみなうるむ     山口誓子(やまぐち・せいし)

(なあるほし しゅんせいとして みなうるむ)

山口誓子というと即物的抒情、硬質な抒情というイメージがある。

かりかりと蟷螂蜂の皃を食む
(かりかりと とうろう はちの かおをはむ)

夏草に汽罐車の車輪来て止る 
(なつくさに きかんしゃのしゃりん きてとまる)

夏の河赤き鉄鎖のはし浸る
(なつのかわ あかきてつさの はしひたる)

こうして見ると誓子の作品は、どの句も一本の鋼のように直立している。
「立句」というものとは少し違うかもしれないが、その「立姿の厳しさ」という点に於いては合い通じるものがあるだろう。

掲句は、それらと比べて叙情的なムードがある。
それはやはり「みなうるむ」という表現にあるだろう。
しかし、この一句の「立姿の厳しさ」は誓子らしい一句と言える。

名ある星とは、金星、火星はもちろん、ミザル・プロシオン・カペラ・アンタレス・アルタイル、そして誓子が結社誌名とした「天狼(てんろう)」つまりシリウスもある。
それら壮大な天体ショーをつかさどる星々が春のあたたかな夜の中で、やはらかな光りを滲ませている。
厳しい寒さのゆるび、それが全宇宙にさえ及んでいるような、大きな力を感じているのであろう。

ようやく春の長雨も終わった。
日中はあたたかくても、夜は急に冷え込む日が続いたが、最近は夜もあたたくなった。
夜空を見上げても寒くなくなった。
掲句が実感として感じることができる。

今週の一句~春風(はるかぜ)  与謝蕪村

春風や堤長うして家遠し     与謝蕪村(よさ・ぶそん)

 

(はるかぜや つつみなごうして いえとおし)

 

最近になってこの句の良さ…というかテクニックに気が付いた。

この句は「堤」=「長い」、「家」=「遠い」という空間が存在する。

どちらも短い、近い空間ではなく、長い、遠い空間である。

それは蕪村の「郷愁」が持つ「空間」と考えていい。

この「家」はきっと蕪村の故郷の家なのである。

 

蕪村の生い立ちには「謎」が多いが、なんとなく複雑であったようである。

その郷愁の思いは、

春風馬堤曲

に集約されているので、それを見てほしい。

 

句オデッセイ~春風馬堤曲

 

「郷愁の空間」への誘うのが「春風」なのだ。

春風に吹かれ、蕪村の体も、そして心も、いや…堤を歩く、蕪村の「体」を置いて、「心」が春風に乗って、その郷愁の空間へと深く入っている…、そういう句ではないか。

そして、その春風はどこまでも伸びやかで温かい。

母の懐のような風なのだろう。

今週の一句~種蒔(たねまき) 中村草田男

種蒔ける者の足あと洽しや    中村草田男

 

(たねまける もののあしあと あまねしや)

 

 

「種蒔く」というと、いろいろな作物の「種」を蒔くのかと思っていた。

どうやら「苗代」に「稲の種」つまり籾殻を蒔くことをいうそうだ。

 

しかし、この句はどうだろう。

一読、ミレーの『種蒔く人』を想起する。

草田男は西洋に対する敬意が強い。

ヨーロッパの詩はもちろん、西洋哲学、西洋音楽にも深い造詣があった。

推測だが、おそらく、この句には日本古来の稲作より、ミレーの『種蒔く人』が念頭にあったような気がする。

私は俳句というのは、このように「自分が信じる美学」によって変貌させてもいいものだと考える。

そうでなければ俳句は芸術たり得ない。

そのことを強く打ち出した、唯一の存在が草田男だった。

 

今週の一句~春暁(しゅんぎょう) 飯田龍太

春暁のあまたの瀬音村を出づ    飯田龍太(いいだ・りゅうた)

 

(しゅんぎょうの あまたのせおと むらをいず)

 

龍太の故郷、山梨県笛吹市の風景であろう。

春の朝早くの早瀬の音は清廉そのものであろう。

しかし、この句にはどこか哀切がある。

それは「村を出づ」という表現にある。

深読みをすれば、自分はこの村を離れることが出来ない、という寂しさが、この句にある。

瀬音の音が清廉であればあるほど、作者の心を胸打つのではないだろうか。

 

今週の一句~春の空 坪内稔典

ゆびきりの指が落ちてる春の空     坪内稔典(つぼうち・ねんてん

 

(ゆびきりの ゆびがおちてる はるのそら)

 

「指」というと、この句と、

 

秋風やひとさし指は誰の墓     寺山修司

 

を思い出す。

どちらも一読、ドキッとする。

「季語」の付け方が、この作者たちの違いを浮き彫りにしている。

寺山の句の「秋風」は、どこか「憂鬱」で、寺山俳句の詩情を象徴している。

 

稔典さんの「春の空」は明るい。

もちろん、一句全体が明るいわけではない。

ただ、「春の空」が憂鬱だの、淋しさだの、そういう深刻さを打ち消している。

「ゆびきりの指が落ちている」という深刻さをだ。

 

稔典さんの俳句というと、「意味」や「詩情」より「調べ」を優先しているよう思える。

が、こういう句を見ると、やはりそれだけではない。

きっと稔典さんの句には、深い思索があり、それを極限まで「か細く」して、俳句の醍醐味である「軽い調べ」に乗せる。

それが稔典俳句の一つの手法ではないか。

今週の一句~春風 夏目漱石

春風の吹かれ心地や温泉の戻り   夏目漱石

 

 

(はるかぜの ふかれごこちや ゆのもどり)

 

この句を見ると、いつも「坊っちゃん」の一節を思い出す。

 

何を見ても東京の足元にも及ばないが、温泉だけは立派なものだ。

 

東京から、数学教師として松山へ赴任した「坊っちゃん」は道後温泉をすっかり気に入り、毎日のように温泉へ通う。

その温泉帰りの坊っちゃんの心持を詠んだようである。

 

この句は「吹かれ心地」という言葉がいい。

あとは「はるかぜ」「温泉の戻り」と、普通…というかありふれた言葉である。

「吹かれ心地」こそがこの句に命を吹き込んでいる。

「吹かれ心地」とはどんな心地だろう、と思うが、なんとなく、誰もが想像出来る。

きっと、そこがいいのだ。

今週の一句~春来たる(はるきたる) 福永耕二

鱈の海濁るは春の来つつあり   福永耕二(ふくなが・こうじ)

 

(たらのうみ にごるははるの きつつあり)

 

「鱈」は冬の季語で、寒冷な海に生息する。

「鱈の海」とは東北、北陸あたりの日本海沿岸の海であろう。

この句の良さは「濁る」の一語であろう。

普通、春が近づけば、海がかがやくものである。

しかし、この海は「濁る」のである。

逆説的な表現によって、豊潤の海を表現することに成功した。

 

福永耕二は「馬酔木」編集長、「沖」同人として活躍し、水原秋櫻子に、

 

石田波郷の再来

 

と評価された逸材だったが、若くして亡くなった。

存命であれば今、80歳。

俳壇の重鎮として活躍していたことだろう。

 

今週の一句~春近し(はるちかし)  大谷句仏

春近き銀座の空を鴎飛ぶ    大谷句仏(おおたに・くぶつ)

 

(はるちかき ぎんざのそらを かもめとぶ)

 

 

大谷句仏は、大谷光演(おおたに・こうえん)で明治から大正にかけての浄土真宗の僧侶。

京都東本願寺第23代の法主である。

俳句は正岡子規、高浜虚子に学び、のちに独自の俳句の道を進んだ。

余談だが、東本願寺にしても、西本願寺にしても、法主は今も蓮如の子孫が継承している(…はずである)。

ということは「蓮如」の子孫ということになるだろう。

 

掲句。

まず、句の鑑賞より、銀座に鴎が飛んでいた、という風景に感嘆する。

今はそういう景色を見ることは出来ない。

考えてみれば昔、銀座から先は「海」だった。

海はどんどん奥へ奥へ埋め立てられていった。

銀座の先の「晴海」あたりに行けば、なんとなく「海の気配」を感じるが、いまや銀座に「海の気配」はない。

 

「銀座に鴎が飛んでいる」という景色が明るい。

おそらく私だけではないと思うが、「春近し」「春隣」などと聞くと、なんとなくウキウキした気分になる。

冬は冬でいいものだが、この寒さを考えると、春がもうすぐ…と思うと、明るい気分になる。

掲句はその情景が季語「春近し」とよく響き合っている。

「新宿」「渋谷」「池袋」など他の地と比べ、「銀座」には清潔感、高級感がある。

鴎の「白」が似合っている、と言っていいだろう。

 

今週の一句~雪(ゆき) 松尾芭蕉

 

馬をさへながむる雪の朝かな   松尾芭蕉

 

(うまおさえ ながむるゆきの あしたかな)

 

 

紀行文「野ざらし紀行」の中の一句。

 

旅人をみる

 

と「前書き」がある。

「野ざらし紀行」は芭蕉が「旅に生きる」と決めて最初の「旅」で、旅立ちに際し、

野ざらしをこころに風のしむ身かな

と、悲愴な思いを述べている。

ただ、名古屋あたりに着くと、だいぶ心が落ち着いてきている感がある。

名古屋には、芭蕉の門弟がたくさんいた。

芭蕉と名古屋の弟子たちは、「猿蓑」に先駆けて、「冬の日」という俳諧集を編纂した。

「おくのほそ道」のあと編纂された「猿蓑」は、蕉門俳諧の金字塔であるが、「冬の日」こそが蕉風俳諧確立の記念すべき俳諧集という評価がある。

いずれにしても、名古屋は芭蕉にとって、蕉門俳諧の重要な拠点のであり、心休まる地であっただろう。

掲句はその近辺での作。

 

掲句はまず「写生」が丁寧である。

雪が降ったから…かどうかはわからないが、馬がにわかにそわそわとしだした。

旅人はそれをなだめつつ、馬上から雪を眺めている…、そういう風景である。

「旅びとを見る」

とわざわざ前書きに書いているくらいだから、心に残る風景だったのだろう。

時代劇のワンシーンを見ているかのような、静謐で、趣の深い一句である。

 

 

 

 

今週の一句~福引(ふくびき) 菊地悠太

福引やイオンモールの午後にをり    菊地 悠太(きくち・ゆうた)

 

(ふくびきや イオンモールの ごごにおり)

 

都市近郊には、いまや必ず、広大な敷地に建つ「イオンモール」がある。

ここではショッピングを始め、飲食街、エステサロン、スポーツジムなどなど…。

ここなら一日、いや、広いところなら一日では回りきれないほど、様々な店舗や施設がある。

実に楽しい施設ではあるが、一方で、どの地域も、同じような風景になり、同じような家族の風景でもある。

そのことに少し、虚しさを感じないでもない。

 

掲句。

お正月風景である。

お正月というだけでも賑わいを感じるが、いろいろな店で行われる「福引」は、さらに混雑と賑わいを感じさせる。

掲句は「午後」というのがいい。

華やぎとけだるさがある。

おそらく、作者は「福引」にははしゃぐわけでもなく、淡々と周りの風景を眺めている。

その根底には、上記のような、現代のむなしさがある。