今週の一句~雪 石井 稔

 

チョコバナナ立てて浅草雪が降り   石井 稔

(ちょこばなな たてて あさくさ ゆきがふり)

 

「好日」同人。

「チョコバナナ」が俳句で登場するのが珍しい。

しかし、決して奇を衒ったものではない。

高度経済成長期の頃から大きな寺社の境内やイベント会場の露店で売られるようになり、身近なものである。

下町生まれの私としては懐かしい風景…、しかし、今でも容易に見ることの出来る風景だ。

浅草寺の境内の風景であろう。

チョコでコーティングし、カラフルなチョコチップをふりかけた「チョコバナナ」が露店に並んでいる。

しかし、境内には雪が降り始めた。

客足も途絶え、「チョコバナナ」がむなしく(?)並んでいる。

「チョコバナナ」のチョコ色と、「雪」の白の対比が斬新。

「チョコバナナ」という庶民性が「浅草」の風土とマッチしている。

 

 

 

今週の一句~牡蠣 花田 春兆 

剥かれたる牡蠣の白さをなほ洗ふ  花田 春兆

 

(むかれたる かきのしろさを なおあらう)

 

「牡蠣」というと、冬の海産物を代表する貝だが、最近は夏、「岩ガキ」が食べられる。

これがおいしい。

秋田県象潟で岩ガキを食べた時、地元の業者に、

 

岩ガキと牡蠣の違いは何ですか?

 

と聞いたら、「岩ガキは天然もの」なのだそうだ。

それだけに漁獲量も漁獲時期も決まっている。

本当かどうかはわからない。

その人(おばあさん)はそう言っていた。

岩ガキだと「生」か「焼き」がうまい。

冬の牡蠣だと「鍋」もいい。

冬の季語「牡蠣」の副題には「牡蠣割女」(かきわりめ)という季語もある。

水揚げは主に男の仕事で、それを剝くのが主に女の仕事である。

牡蠣に限らず貝は雑菌が多い。

貝を割って、真っ白な身が出て来たが、さらに冷たい水をかけ、なお、洗う。

牡蠣の真白き身がさらに白くなってゆく。

冬の冷気の中、その白さは、乾いた空気に瑞々しさが生まれたかのようだ。

一句の中に、冬の冷気、水の瑞々しさ、牡蠣の輝く白が美しい。

 

 

 

今週の一句~猟 加藤房子

火の匂まとひ漢の猟はじめ    加藤 房子

 

(ひのにおい まとい おとこの りょうはじめ)

 

季語「猟」(りょう)は野生の鳥、獣を、銃・網・罠などを使って捕獲すること。

類似の季語に「狩」「狩猟」「猟期」「猟犬」「狩場」「猟銃」などがある。

「猟」が冬の季語なのは、秋から冬にかけて渡り鳥が飛来し、獣が餌を求めて人目につきやすいところに現れるから、と言われている。

掲句。

「猟はじめ」とは「猟」の解禁日、または、その頃であるから、普通であれば、まだ「火の匂い」をまとっていない。

しかし、すでに、その漢(おとこ)は「火の匂い」をまとっているのである。

それは、その漢の体そのものに「火の匂い」がまとわりついているからである。

いわば、本能の匂いである。

それを見てとった作者の感覚が鋭い。

(句集『須臾の夢』(俳句アトラス)より

 

 

加藤 房子(かとう・ふさこ)

昭和9年生まれ。神奈川県横浜市在住。

「千種」代表、俳人協会会員、横浜俳話会副会長。

句集『須臾の夢』で第21回横浜俳話会俳句大賞受賞。

 

今週の一句~茅花流し(つばなながし) 角川照子

 

 

もう一度茅花流しに立ちたしよ    角川 照子(かどかわ・てるこ)

 

「茅花流し」は初夏の季語。

茅花が絮状になる頃に吹く風のことである。
しかし、私は、「茅花」の群れを吹き抜ける風、そしてそれにたなびく「茅花」の群れと鑑賞したい。

歳時記には、

雨気を含んだ南風を指す

ともあるが、夏の爽やかな風をも私は感じる。

 

掲句は「河」主宰、角川照子先生の絶唱。

句意は字の通り。

照子先生の句はどれも素直で、正直である。

自分の死を間近に意識した時、先生が思い出した風景は茅花流しに佇む風景だった。

夫・角川源義の句に、

 

妻恋へば七月の野に水の音

 

があるが、私は、いつもこの句とセットで掲句を考える。
 
源義が、妻を恋う。
 
その恋しき、照子先生は茅花流しに佇んでいる。
 
そんな風景がいい。

名ある星春星としてみなうるむ     山口誓子(やまぐち・せいし)

(なあるほし しゅんせいとして みなうるむ)

山口誓子というと即物的抒情、硬質な抒情というイメージがある。

かりかりと蟷螂蜂の皃を食む
(かりかりと とうろう はちの かおをはむ)

夏草に汽罐車の車輪来て止る 
(なつくさに きかんしゃのしゃりん きてとまる)

夏の河赤き鉄鎖のはし浸る
(なつのかわ あかきてつさの はしひたる)

こうして見ると誓子の作品は、どの句も一本の鋼のように直立している。
「立句」というものとは少し違うかもしれないが、その「立姿の厳しさ」という点に於いては合い通じるものがあるだろう。

掲句は、それらと比べて叙情的なムードがある。
それはやはり「みなうるむ」という表現にあるだろう。
しかし、この一句の「立姿の厳しさ」は誓子らしい一句と言える。

名ある星とは、金星、火星はもちろん、ミザル・プロシオン・カペラ・アンタレス・アルタイル、そして誓子が結社誌名とした「天狼(てんろう)」つまりシリウスもある。
それら壮大な天体ショーをつかさどる星々が春のあたたかな夜の中で、やはらかな光りを滲ませている。
厳しい寒さのゆるび、それが全宇宙にさえ及んでいるような、大きな力を感じているのであろう。

ようやく春の長雨も終わった。
日中はあたたかくても、夜は急に冷え込む日が続いたが、最近は夜もあたたくなった。
夜空を見上げても寒くなくなった。
掲句が実感として感じることができる。

今週の一句~春風(はるかぜ)  与謝蕪村

春風や堤長うして家遠し     与謝蕪村(よさ・ぶそん)

 

(はるかぜや つつみなごうして いえとおし)

 

最近になってこの句の良さ…というかテクニックに気が付いた。

この句は「堤」=「長い」、「家」=「遠い」という空間が存在する。

どちらも短い、近い空間ではなく、長い、遠い空間である。

それは蕪村の「郷愁」が持つ「空間」と考えていい。

この「家」はきっと蕪村の故郷の家なのである。

 

蕪村の生い立ちには「謎」が多いが、なんとなく複雑であったようである。

その郷愁の思いは、

春風馬堤曲

に集約されているので、それを見てほしい。

 

句オデッセイ~春風馬堤曲

 

「郷愁の空間」への誘うのが「春風」なのだ。

春風に吹かれ、蕪村の体も、そして心も、いや…堤を歩く、蕪村の「体」を置いて、「心」が春風に乗って、その郷愁の空間へと深く入っている…、そういう句ではないか。

そして、その春風はどこまでも伸びやかで温かい。

母の懐のような風なのだろう。

今週の一句~種蒔(たねまき) 中村草田男

種蒔ける者の足あと洽しや    中村草田男

 

(たねまける もののあしあと あまねしや)

 

 

「種蒔く」というと、いろいろな作物の「種」を蒔くのかと思っていた。

どうやら「苗代」に「稲の種」つまり籾殻を蒔くことをいうそうだ。

 

しかし、この句はどうだろう。

一読、ミレーの『種蒔く人』を想起する。

草田男は西洋に対する敬意が強い。

ヨーロッパの詩はもちろん、西洋哲学、西洋音楽にも深い造詣があった。

推測だが、おそらく、この句には日本古来の稲作より、ミレーの『種蒔く人』が念頭にあったような気がする。

私は俳句というのは、このように「自分が信じる美学」によって変貌させてもいいものだと考える。

そうでなければ俳句は芸術たり得ない。

そのことを強く打ち出した、唯一の存在が草田男だった。

 

今週の一句~春暁(しゅんぎょう) 飯田龍太

春暁のあまたの瀬音村を出づ    飯田龍太(いいだ・りゅうた)

 

(しゅんぎょうの あまたのせおと むらをいず)

 

龍太の故郷、山梨県笛吹市の風景であろう。

春の朝早くの早瀬の音は清廉そのものであろう。

しかし、この句にはどこか哀切がある。

それは「村を出づ」という表現にある。

深読みをすれば、自分はこの村を離れることが出来ない、という寂しさが、この句にある。

瀬音の音が清廉であればあるほど、作者の心を胸打つのではないだろうか。

 

今週の一句~春の空 坪内稔典

ゆびきりの指が落ちてる春の空     坪内稔典(つぼうち・ねんてん

 

(ゆびきりの ゆびがおちてる はるのそら)

 

「指」というと、この句と、

 

秋風やひとさし指は誰の墓     寺山修司

 

を思い出す。

どちらも一読、ドキッとする。

「季語」の付け方が、この作者たちの違いを浮き彫りにしている。

寺山の句の「秋風」は、どこか「憂鬱」で、寺山俳句の詩情を象徴している。

 

稔典さんの「春の空」は明るい。

もちろん、一句全体が明るいわけではない。

ただ、「春の空」が憂鬱だの、淋しさだの、そういう深刻さを打ち消している。

「ゆびきりの指が落ちている」という深刻さをだ。

 

稔典さんの俳句というと、「意味」や「詩情」より「調べ」を優先しているよう思える。

が、こういう句を見ると、やはりそれだけではない。

きっと稔典さんの句には、深い思索があり、それを極限まで「か細く」して、俳句の醍醐味である「軽い調べ」に乗せる。

それが稔典俳句の一つの手法ではないか。

今週の一句~春風 夏目漱石

春風の吹かれ心地や温泉の戻り   夏目漱石

 

 

(はるかぜの ふかれごこちや ゆのもどり)

 

この句を見ると、いつも「坊っちゃん」の一節を思い出す。

 

何を見ても東京の足元にも及ばないが、温泉だけは立派なものだ。

 

東京から、数学教師として松山へ赴任した「坊っちゃん」は道後温泉をすっかり気に入り、毎日のように温泉へ通う。

その温泉帰りの坊っちゃんの心持を詠んだようである。

 

この句は「吹かれ心地」という言葉がいい。

あとは「はるかぜ」「温泉の戻り」と、普通…というかありふれた言葉である。

「吹かれ心地」こそがこの句に命を吹き込んでいる。

「吹かれ心地」とはどんな心地だろう、と思うが、なんとなく、誰もが想像出来る。

きっと、そこがいいのだ。