今週の一句~椋鳥(むくどり) 小澤 冗

椋鳥の賑はうて子の帰る頃    小澤 冗(おざわ・じょう)

 

「季寄せ」を読むと、大群をなして移動する鳥で、椋の実をついばむのでこの名がある、と書いてあった。

椋は成長が早く、大木になりやすい。

初夏に花が咲き、秋になり熟すと黒褐色の実をつける。

味は非常に甘く、美味である、という。

しかし、最近の椋鳥というと、駅前や繁華街の街路樹に大群で宿る鳥…というイメージがある。

その様は異常で、近くにいると恐ろしささえ感じる。

今や、秋、冬の都会の風物詩となっている。

 

掲句。

上記のような夕暮の風景であろう。

夕暮れの椋鳥の賑わう樹木の空を見上げている。

秋の夕ぐれは早い。

仕事や学業を済ませた子供たちもそろそろ家に帰ってくるころである。

そう考えれば、この寒々とした夕空もあたたかく感じる。

今、大きく騒いでいる椋鳥も、「わが家」に帰って来たのである。

「椋鳥」の賑わいも、今日一日を無事に過ごした家族の喜びの声かもしれない。

こうして考えると、生きとし生けるものすべてに「帰るところ」は必要なのだな、とあらためて思う。

 

 

今週の一句~秋(あき) 飯田蛇笏

誰彼もあらず一天自尊の秋       飯田蛇笏

 

(たれかれも あらず いってん じそんのあき)

 

蛇笏77歳での作。

この年に蛇笏は亡くなったので、ある意味、辞世の句と考えてもいい。

「秋の天」を詠んだ句で、これほど格調高く、抜けるような秋の青空を詠んだものは他にない。

「一天」というのがいい。

例えば、これを「青空」「大空」とかに変えてみても一句としては成り立つ。

しかし、この漢詩的表現である「一天」が格調高く、硬質な響きが一句に満ちている。

「青空」や「大空」では詩的空間が「横」に広がってしまうが、「一天」は「縦」に貫いてゆくような鋭さがある。

それが「秋」にはよく似合うと思うのである。

さらに言えば「自尊の秋」もいい。

「自尊」とは「自分を尊ぶ」ということ。

蛇笏の生涯を見れば、この、尊ぶ心が、世俗的・権勢的なものではないことは明らかである。

ひたすら生きた

さらに言えば、

ただただ俳句のために生きた

自分の生涯を高らかに肯定しているのである。

ところで、この句。

厳密に考えると、どういう意味かいまいちわからない部分もある。

「誰彼もあらず」とはどういう意味か?

誰も彼もいない

つまり、

誰もいない

という意味あいで考えれば、蛇笏の生涯を過ぎ去っていった人々、そういう人々が今はもうこの世にいない、あるいは、自分の傍にもういない、ということになろう。

ただ、こうとも考えられる。

誰でも彼でも関係ない

つまり、

自分は自分である。

という考え。

信じた道、信じた俳句の道をひたすら進むだけだ。

という自負である。

自尊の秋

ということを考えれば、後者であろう。

ただ、蛇笏最晩年の句と考えれば前者の意味もあろう。

つまり、この場合、両方の意味があると考えていいのではないか。

死を意識した蛇笏の胸中には、なつかしい人々の面影があっただろう。

「一天」とは残された自分の寂しさのような気もする。

そして、おのがひたむきに生き、俳句に賭けた人生を振り返っただろう。

この場合、「一天」は自分の人生の象徴にもなるだろう。

この二つの思いが、

誰彼もあらず

という言葉を生み出したのではないか。

そして、その命をいとおしむ心が「自尊の秋」である。

最晩年になっても、これほどの力強く、すがすがしい一句を生み出した、蛇笏の気力はすさまじい。

蛇笏翁、面目躍如の一句である。

今週の一句~芋煮会(いもにかい) 水原秋櫻子

月山の見ゆと芋煮てあそびけり   水原秋櫻子

 

(がっさんの みゆと いもにて あそびけり)

 

季語は「芋煮会」。

仲秋の頃、東北地方では、河原に多くの人が集まり、

里芋

こんにゃく

などを鍋で煮込み、飲み食いをする。

東北と言っても、主に宮城県、山形県、福島県で行われていたが、最近では、広く知られるようになり、他の地域でも行われている。

実は、私も、今年、みんなで集まって「芋煮会」をやろうと企画している。

近年では、クレーンなどで「大鍋」を吊り、大量の芋煮汁を作る。

 

ところで「芋煮汁」は何をもって「芋煮汁」と言えるか。

調べた限りでは、「里芋」さえ入っていれば、「芋煮汁」と言えるらしい。

そもそも「里芋」はコメ不足、つまり「飢饉」に備えて作ったらしい。

きっと成育力が強く、比較的、簡単に育てることが出来たのであろう。

ただ、「日持ち」がしなかった。

里芋は痛みが早く、保存がきかない。
だから、今のうちに大量に食つちまえ…というのが「芋煮汁」の始まりである。
最近の芋煮汁はうまいが、もとはそういう食べ物なのである。
最近の芋煮汁で感心するのは、あれだけたくさんの具を入れながら、実に汁が澄んでいることである。
しかし、初期の、原型の「芋煮汁」はあんなに澄んではいまい。
現代の、地元の方々の努力の成果である。

 

掲句。

「月山」とあるから、山形での芋煮会風景である。

そばには最上川が流れている(…と考えたい)。

きっと、月山には、そろそろ雪が積もっているのではないか。

あの「雪」がやがて、平野に降り、辺り一面、雪となる。

「束の間」の秋を楽しんでいるのだ。

東北の祭りもそうだが、東北の行事には、季節を愛おしむという心が、満ち溢れている。

今週の一句~名月(めいげつ) 松尾芭蕉

名月や北国日和定めなき     松尾芭蕉

 

(めいげつや ほくこくびより さだめなき)

 

ふりかえってみると先週は、

9月17日(月) 村上鬼城忌

9月18日(火) 石井露月忌

9月19日(水) 正岡子規忌

9月20日(木) 中村汀女忌

9月21日(金) 宮沢賢治忌

そして、

9月23日(日)は秋彼岸

9月24日(月)は十五夜

である。

どの季語も重要であるが、とりわけ「十五夜」は感懐深い。

俳句に限らず、日本の古今の詩歌人にとって最も重要な日の一つ、と言っていい。

西行が、

花(桜)に狂った詩人

であれば、芭蕉は、

月(名月)に執した詩人

ではなかったか。

わかる限り、芭蕉の名月を詠った句を挙げてみる。

 

けふの今宵寝る時もなき月見かな

月はやしこずゑハあめを持ながら

寺に寝て誠がほなる月見かな

賎のこやいね摺かけて月を見る

いものはや月待さとの焼ばたけ

名月や池をめぐりて夜もすがら

名月の夜やおもおもと茶臼山

夏かけて名月あつきすずみかな

明月の出るや五十一ヶ条

名月の見所問ん旅寝せむ

月見せよ玉江の蘆を刈ぬ先

あさむつや月見の旅の明ばなれ

月に名を包みかねてやいもの神

義仲の寝覚の山か月悲し

中山や越路も月ハまた命

国々に八景更に気比の月

月清し遊行のもてる砂の上

月のみか雨に相撲もなかりけり

月いづく鐘は沈る海のそこ

ふるき名の角鹿や恋し秋の月

明月や座にうつくしき皃もなし

名月や門に指くる潮頭

名月に麓の霧や田のくもり

名月の花かと見えて綿畠

今宵誰よしよし野の月も十六里

名月はふたつ過ても瀬田の月

 

もっとたくさんあるのだが、疲れたのでこのへんにしておく。

名月や池をめぐりて夜もすがら

という句を見た時、私は正直、

おおげさな…。

という気持もあった。

名月を見るために徹夜した!

と言っているのだ。

そんな馬鹿な…と正直思った。

しかし、調べてみると、

けふの今宵寝る時もなき月見かな

という句もある。

これは、

寝ないで名月を眺めるぞ~。

と言っている。

 

芭蕉の五大紀行文と言われているうちに、

鹿島紀行

更科紀行

は、その地で「名月」を見るための「旅」である。

また、「おくのほそ道」の冒頭、みちのくの旅への思いを綴った箇所に、

松島の月まづこころにかかりて

というのがある。

名月ではないが、芭蕉がみちのくを旅する前、まず心に描いた風景が「松島の月」だったのである。

 

さて、掲句。

私はこの句が年々好きになっている。

北国(福井県敦賀)の日よりは不安定だな~。

昨夜はあんなに晴れて、きれいな月が見れたのに、今宵の満月は見られそうにない…。

とつぶやいているのだ。

大げさな言い方ではなく、芭蕉は、

名月を見ることに命を懸けていた

のである。

そう思えば芭蕉の無念さがひしひしと伝わってくる。

 

ただ、芭蕉の凄いところは無念さを詠みながら、それだけで終わらないところだ。

この句にも北国の生々流転の、雄大で、力強い雲の動きが見えてくるようではないか。

 

 

今週の一句~蜻蛉(とんぼ) 種田山頭火

つかれた脚へとんぼとまつた     種田山頭火

(つかれたあしへ とんぼ とまった)

 

最近まで、蝉がうるさいほどに鳴いていたが、彼らもあっという間に姿を消し、ふと、耳を澄ますと、秋の虫たちの声で満ちている。

「虫」という存在は一般的に人に好かれる存在でない。

毛虫、カメムシ、ゴキブリ…、みな「嫌われ者」だ。

黄金虫などは私が知る限り、何の害もない虫だが、見ていて気持のいいものでもない。

蟋蟀でさえ、音色を聞く分にはいいが、実際、そばにいると気持のいいものではない。

 

俳人で、ふと「虫」を好んで詠んだのは誰だろう…、と考えたら、なんとなく「山頭火」の名が思い浮かんだ。

一茶も小さな命を愛し、共感したが、あまり「虫」というイメージはない。

もっとも、

やれ打つな蠅が手をすり足をする   一茶

がある。

が、どちらかというと「馬」とか「蛙」とか「雀」とか…、そういう印象がある。

 

山頭火(明治15年(1882)~昭和15年(1940))は山口県佐波郡(現・防府市)の大地主の長男として生まれた。
11歳の時、母が自宅の井戸に投身自殺をした。

これが山頭火の俳人としての道…、というより運命そのものを決定した。

15歳から俳句を始めた。

早稲田大学文学科に入学したが、神経衰弱の為、退学し防府に戻る。
父とともに酒造業を経営したが、父は女狂い、山頭火は酒狂いだから、身上はあっという間に傾いた。
28歳で佐藤サキノと結婚し、翌年には長男が誕生。

32歳の時、荻原井泉水に師事し、「層雲」に参加。

35歳 の時、「層雲」選者の一人となり、めきめき頭角を顕したが、その頃に種田家は破産、父は行方不明となり、夫婦は熊本に移住し、弟は借金苦で自殺した。

再起を図って上京したが、関東大震災に遭い、早々に熊本に戻る。

この頃には離婚もしている。

なんだか踏んだり蹴ったりの人生である。

42歳の時、泥酔して路面電車に立ちふさがる事件を起こした。

これはきっと自殺未遂であろう。
43歳で得度し、曹洞宗味取観音の堂守となる。
45歳、雲水姿で西日本を中心に行脚した。

ここから放浪の俳人・山頭火が生まれる。
51歳の時には再び自殺未遂を起こしたが、58歳、10月10日夜、安住の地と言っていい、愛媛県の一草庵で脳溢血で死去した。

俳壇では、山頭火が願っていた「コロリ往生」を遂げた…、と言うが、「脳溢血」が「コロリ往生」なのかどうか。

まあ、「長患いせずに済んだ」という意味では「コロリ往生」だろう。

山頭火の虫の句を挙げてみる。

 

酔つてこおろぎと寝ていたよ

生まれた家はあとかたもないほうたる

ほうたるほうたるなんでもないよ

いつもひとりで赤とんぼ

けふの日も事なかりけり赤とんぼ

こほろぎがわたしのたべるものをたべた

こほろぎよ、食べるものがなくなつた

蝉しぐれ死に場所をさがしてゐるのか

鳴くかよこほろぎ私も眠れない

ひとりで蚊にくはれてゐる

ほうたるこいほうたるこいふるさとにきた

松虫よ 鈴虫よ闇の 深さかな

笠にとんぼをとまらせてあるく

すッぱだかへとんぼとまろうとするか

閉めて一人の障子を虫が来てたたく

 

これほどまでに「虫」という小さな、ちっぽけな命に寄り添い、句を詠んだ俳人が、かつて、そして、これからもいるだろうか…、と思う。

それは「草」「花」への思いも同様である。

 

掲句は「行脚」の際の句であろう。

「行脚」と言えばかっこはいいが、はっきり言えば「物乞い」である。

率直に「生きる寂しさ」を感じる。

その寂しさを「とんぼ」だけが共有している。

松尾芭蕉は「おくのほそ道」に於いて「人生は旅」と言った。

近現代で唯一、「人生は旅」を実践したのは山頭火一人だ。

「旅」することの寂しさを、心底知っているのは、芭蕉と山頭火だけであろう。

 

今週の一句~蜩(ひぐらし) 成田一子

かなかなや子供靴より砂無限     成田一子

 

(かなかなや こどもぐつより すなむげん)

 

「滝」2018年9月号より。

成田一子主宰は「滝」二代目主宰。

先年、お亡くなりになった、父・菅原鬨也氏のあとを継ぎ、主宰に就任。

まだ若い主宰である。

成田主宰の存在をはっきり意識したのは、辻桃子「童子」主宰の言葉による。

 

面白い感覚を持った、才能のある若い俳人がいる。

 

と教えていただいた。

それ以来、注視するようになったが、かねがね表現や発想の豊かな俳人だと感心していた。

編集長時代は、お住まいの宮城県仙台市へ行き、雑誌のグラビア撮影で、初めてお会いした。

音楽(ロック)が好きで、今でもバンド活動をしているそうだ。

 

なんとなく俳句は「国文科」出身の人が有利(?)のように思われがちだが、実際はそうでもないようだ。

特に音楽をやっていた人の作品は優れている。

音楽は不得手だが、俳句は「韻文」、つまり「調べ」「リズム」の文学であるから、きっとそういう点が共通するものがあるのだろう。

急にリズムを変える「転調」は、俳句の「転換」「ひねり」と共通しているのかもしれない。

(まあ、推測だが…)。

 

成田主宰の句はなにより発想がよく、表現が独特で、なおかつ、一句全体に「ハリ」がある。

「しらべ」が張っているからだろう。

 

掲句。

「無限」という表現に実に感心した。

一般的表現であれば、

 

かなかなや子供靴より砂こぼれ

かなかなや子供靴より砂尽きず

かなかなや子供靴より砂あまた

 

などとなるのではないか。

「無限」がいい。

上の句を見てわかるように、素材自体は、なんということもない、むしろ陳腐で、詠み古されたものと言っていい。

この「無限」という一語だけが「斬新」なのだ。

俳句は何を詠むかも大事だが、「どう詠むか」も大事である。むしろ俳句の歴史400年の厚みを考えれば、これからは「何を詠むか」より「どう詠むか」が重要になってくる。

とめどもなくこぼれて来る砂の小さな「滝」が見えるようである。

子供靴からいつまでも砂が尽きない、ということは、子供がそれだけ外で元気に遊んできた、ということであり、「無限」という言葉のイメージから、元気に遊ぶ子供の大きな「未来」をも表現している。

また、「無限」という言葉は「現実」と「非現実」の狭間へと読者を誘うのだ。

実に表現力豊かな俳人だ。

今後の活躍がますます期待される。

 

季語「かなかな」は秋の季語だが、夏の終わりの象徴でもある。夏休みが終わり、子供たちも「日常」へと帰ってゆくのだ。

 

 

今週の一句~震災忌(しんさいき) 中村草田男

万巻の書のひそかなり震災忌   中村草田男(なかむら・くさたお)

 

「震災忌」とは、大正12年9月1日の相模湾西部を震源とする大地震、いわゆる「関東大震災」で亡くなった人を悼む日である。

東京だけでも約7万人の死者を出した。

現在は「防災の日」として、国民の防災意識を高める日となっている。

 

中村草田男(明治34年(1901)~昭和58年(1983))は清国領事の父・中村修の長男として、中国福建省に生まれた。

本名は清一郎。

その後、両親の故郷・愛媛松山、東京青山、ふたたび松山へ移住。

東京大学国文学卒。高濱虚子に師事し、「ホトトギス」に入会。

昭和26年「萬緑」を創刊、主宰。

「ホトトギス」の客観写生を学びつつ、ニーチェなどの西洋思想からも影響を受け、生活や人間性に根差した句を展開した。

石田波郷、加藤楸邨らとともに「人間探究派」と呼ばれた。

日野草城との「ミヤコ・ホテル」論争、加藤楸邨との戦争責任論争、第二芸術論論争、前衛俳句論争、根源俳句論争、山本健吉の「かるみ」への反発など、句作、論争ともに近代俳句の主導的役割を担った。

成蹊大学教授。朝日俳壇選者。俳人協会初代会長。

句集に『長子』『火の鳥』『萬緑』『来し方行方』などがある。

 

草田男は哲学はもちろん西洋文学、日本の古典にも精通していた。

それだけに「万巻」というのは説得力がある。

深読みすれば「万巻」というのは「万人」をもイメージする。

「万巻の書のひそか」は「万人の命のひそか」とも通じる。

また、「万巻」は「あらゆる知識」を象徴している。

しかし、自然の力は、それをも凌駕する…とも考えられる。

草田男の句に、

なにげなく…

という句はない。

そこが「人間探求派」であろう。

 

〈草田男の他の主な作品〉
乙鳥はまぶしき鳥となりにけり
蜩の鳴き代りしははるかかな
校塔に鳩多き日や卒業す
家を出て手を引かれたる祭かな
あたたかき十一月もすみにけり
降る雪や明治は遠くなりにけり
夏草や野島ヶ崎は波ばかり
蟾蜍長子家去る由もなし
香水の香ぞ鉄壁をなせりける
玫瑰や今も沖には未来あり
冬の水一枝の影も欺かず
秋の航一大紺円盤の中
貝寄風に乗りて帰郷の船迅し
そら豆の花の黒き目数知れず
妻二夜あらず二夜の天の川
父となりしか蜥蜴とともに立ち止る
雪女おそろし父の恋恐ろし
たんぽぽのかたさや海の日も一輪
金魚手向けん肉屋の鉤に彼奴を吊り
萬緑の中や吾子の歯生え初むる
泉辺のわれ等に遠く死はあれよ
すつくと狐すつくと狐日に並ぶ
少年の見やるは少女鳥雲に
虹に謝す妻より他に女知らず
毒消し飲むやわが詩多産の夏来る
膝に来て模様に満ちて春着の子
白鳥といふ一巨花を水に置く
勇気こそ地の塩なれや梅真白
伸びる肉ちぢまる肉や稼ぐ裸
炎熱や勝利のごとき地の明るさ
蜻蛉行くうしろすがたの大きさよ
葡萄食ふ一語一語の如くにて

今週の一句~秋燕(あきつばめ) 飯田蛇笏

高波にかくるる秋の燕かな    飯田蛇笏(いいだ・だこつ)

(たかなみに かくるる あきの つばめかな)

 

燕は晩春、日本にやってきて、秋に南へ帰ってゆく。

地方によっては時期が違うかもしれないが、私の住むあたりでは田植の頃、ゴールデンウイークの前にちらほらと姿を見かけるようになり、田植の頃には、水を張った田、苗を植えたばかりの田を鮮やかに飛び回っている。

「秋に帰る」と書いたが、いったいいつ頃に帰るのだろう。

私のイメージとしては10月くらいだと思っていたが、最近(8月下旬)、空を見上げてもあまり燕を見かけなくなった。

5月、6月あたりは、子燕なども交じって、たくさん飛んでいたのだが…。

歳時記を見ると、

9月頃になると…

と書いてあった。

もう、そろそろと帰り始めているのだろうか。

 

掲句。

飯田蛇笏(明治18年(1885)~昭和37年(1962))は「雲母」(うんも)主宰。

四男は俳人で、二代目「雲母」主宰、昭和を代表する俳人・飯田龍太である。

早稲田大学時代に早稲田吟社に所属し、一時期、松根東洋城にも師事したが、のちに「ホトトギス」に入会し、高浜虚子に師事した。

山梨県東八代郡五成村(のち境川村、現在は笛吹市)の大地主の長男として生まれる。

早稲田大学を中退。

同級生に若山牧水がいる。

芥川龍之介は、蛇笏の句を高く評価し、蛇笏の影響を受けた句も残している。

強烈な主観で風土に根差した自然詠を多く残した。

句の声調の正しさ、格調の高さから「タテ句最後の人」とも称され、大正時代全盛期を迎えた「ホトトギス」の四天王の一人として活躍した。

ちなみに四天王の残りの三人は、原石鼎、村上鬼城、前田普羅。

それぞれの代表作を列記してみる。

 

芋の露連山影を正しうす       飯田蛇笏
冬蜂の死にどころなく歩きけり    村上鬼城
頂上や殊に野菊の吹かれをり     原 石鼎
雪解川名山けづる響かな       前田普羅          

 

思い切り簡単に説明すると、

蛇笏は「タテ句」の人

鬼城は「境涯詠」の人

石鼎は「風土詠」の人

前田普羅は「自然詠」の人

である。

「風土詠」と「自然詠」は同じじゃないか、と言われそうである。

わたしの中では微妙に違う。

石鼎の風土詠には「人生」が乗っている。

風土に生きる自分が投影されているのだ。

普羅は純粋な自然詠である。

もっとも普羅は、その後大きく句柄が変容するのだが、今回は蛇笏の話をしたいので、ここでは触れない。

 

さて、蛇笏だが、さきほど芥川龍之介も影響を受けた、と書いた。

龍之介の一文を紹介しよう。

 

「或時(あるとき)歳時記の中に「死病得て爪美しき火桶かな」と云う蛇笏の句を発見した。

この句は蛇笏に対する評価を一変する力を具えていた。

僕は「ホトトギス」の雑詠に出る蛇笏の名前に注意し出した。

勿論その句境も剽窃した。

「癆咳の頬美しや冬帽子」

「惣嫁指の白きも葱に似たりけり」

――僕は蛇笏の影響のもとにそう云う句なども製造した。」
芥川龍之介『飯田蛇笏』

 

蛇笏の句に感銘し、自分の句のモチーフや表現の参考にしていたころがわかる。

蛇笏が実家を継ぐため、早稲田大学を中退し、山梨に戻った折、その文才を惜しんだ若山牧水が押しかけ、説得した、というエピソードもある。

牧水も、龍之介も蛇笏を高く評価していたことがこのことからもわかる。

 

さて、もう一つ、「タテ句」について述べたい。

俳句界最高峰の賞の一つに「蛇笏賞」がある。

文字通り、飯田蛇笏の名を冠した賞である。

俳句界最高の賞がなぜ「子規賞」でもなく。「虚子賞」でもないのか、と疑問に思う人もいるだろう。

簡単に言えば、賞の創立者である角川源義が、蛇笏の俳句に惚れ込んでいたからである。

(こまかいことはこちらを…)

蛇笏賞について

 

「タテ句」とは、だいたいこういうことである。
① 連句の座で一番最初に詠む句。発句。
② 厳然と屹立している句。気高く力強い立ち姿を持っている句。
③ 一句が完全に独立している句。

蛇笏を「タテ句の人」と呼ぶ、この「タテ句」はこの場合、②③になる。

「現代の俳人の中で堂々たるタテ句を作る作者は蛇笏をもって最とすると誰かが書いていたのを読んだことがあるが、そのことはまず氏の句の格調の高さ、格調の正しさについて言えることである。(略)俳句の持つ格調の高さ、正しさにおいてついに彼の右に出づる者は見当たらぬのである。」

「その気魄に満ちた格調の荘重さ、個性の異常な濃厚さは、蛇笏調をして俳諧史上に独歩している。」
山本健吉『現代俳句』

「蛇笏を芭蕉以上に、近代俳句の得がたき作家とする理由は、芭蕉はいちめん連句の人で、付句(つけく)の名人であり、恋の句の達人であった。

言ってみれば、物語的な世界がいつまでも尾鰭のようについていた。

蛇笏は全くそれを捨てて立句(発句)一本に生きた唯一の俳人である。」                  角川源義「近代俳句と飯田蛇笏」

 

であるから、本来、「蛇笏賞」は「タテ句の人」に贈る賞であるべきなのだが、今はそういうこととは関係なく贈られているようだ。

以上を踏まえて、あらためて、掲句を見てみれば、蛇笏の「タテ句」の魅力がわかってもらえると思う。

一句に気魄が満ち、「調べ」に格調がある。

秋の高波が崩れる前にすり抜けてゆく燕の姿、そして、「ドドーン」と崩れてゆく高波の音が、腸に響いてくるようではないか。

 

『飯田蛇笏のその他の作品』
たましひのたとへば秋のほたるかな
一鷹を生む山風や蕨伸ぶ
極寒のちりもとどめず巌ふすま
をりとりてはらりとおもきすすきかな
くろがねの秋の風鈴鳴りにけり
わらんべの溺るるばかり初湯かな
日も月も大雪渓の真夏空
つりそめて水草の香の蚊帳かな
しばらくはあられふりやむ楢林
ふりやみて巌になじむたまあられ
日輪にきえいりてなくひばりかな
炎天を槍のごとくに涼気すぐ
鈴の音のかすかにひびく日傘かな
戦死報秋の日くれてきたりけり
むらさきのこゑを山辺に夏燕
流灯や一つにはかにさかのぼる
川波の手がひらひらと寒明くる
古き世の火の色うごく野焼かな
夏来れば夏をちからにホ句の鬼
一生を賭けし俳諧春の燭
誰彼もあらず一天自尊の秋

今週の一句~白粉花(おしろい) 菖蒲あや

おしろいが咲いて子供が育つ路地     菖蒲あや(しょうぶ・あや)

(おしろいが さいて こどもが そだつろじ)

 

気分的にはまだ夏だが、ここ最近はそこはかとなく秋の気配が感じられる。

 

秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる  藤原敏行

八重葎しげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり  恵慶法師

あかあかと日はつれなくも秋の風    松尾芭蕉

 

りわけ秋の気配を感じるのは「日の長さ」と「草花」である。

毎日、少しずつ変化しているのであろうが、感覚的には、ここ数日でめっきり暮れるのが早くなった。

草花もそう。

今日は東京都杉並区の旧角川源義邸であるすぎなみ詩歌館へ出かけたが、芒、萩、女郎花、露草などを見た。

草花はすでに秋の装いである。

(百日紅もまだまだ頑張っているが…。)

 

菖蒲あやは大正13年(1924)~平成17年(2005)。

東京都葛飾区の生まれ、墨田区京島育ち。

「春嶺」主宰。

余談だが、京島は私の母の実家で、あのへんのことはよく知っている。

東京の下町の暮らしを見てみたかったら、ぜひ京島を歩いてみるといい。

浅草、佃島もいいが、すでに観光地化している。

京島も近年、隣町の「押上」に「東京スカイツリー」が立ち、再開発の波が押し寄せているが、まだまだ風情を残している。

京島は、有名な向島のすぐ隣であるが、向島は「花柳界」であり、京島は「職人の街」なのである。

母方の実家も、ペンキ屋職人の祖父、叔父が住んでいた。

叔父は、お客さんから「どこに住んでいるの」と聞かれると、「京島」と言ってもわからないので、たいがい「向島です。」と答えていた。

大抵のお客さんが「あら、粋なところね」と言う。

しかし、京島はそういうところではなく、下町でも浅草、佃島、向島と較べると少し野暮ったい感じがする。

まあ、それはともかく…。

 

菖蒲あやの家はこの界隈で「炭屋」をしていた。

四歳で実母を亡くし、酒びたりで家業をかえりみない父と、折り合いの悪い継母の元で育った。

吾妻尋常高等小学校を卒業後、日立製作所亀戸工場に勤務。

昭和22年、職場句会で当時の「若葉」同人・岸風三楼(きし・ふうさんろう)と出会い、「若葉」に入会した。

その後、主宰の富安風生にも師事したが、28年、風三楼が「春嶺」を創刊すると「春嶺」に参加し、発行事務を担当した。

42年、句集『路地』で第7回俳人協会賞を受賞。

平成9年、風三楼、宮下翠舟の後を継ぎ「春嶺」三代目主宰となった。

風三楼が提唱した、

 

俳句は日常の詩、俳句の向日性

 

を継承した。

風生は句集『路地』の序文で、あやと、その作品を、

 

踏まれても踏まれてもへこたれない、自分の力で起き直ってくるたんぽぽ

 

のよう、と評している。

あたたかで、素朴で、誰もが共感する下町の生活哀歓を豊かに詠み〝路地の俳人〟〝路地裏の俳人〟と称された。

あやの幼年期は恵まれたものでなく、知れば知るほど泣けてくる。

父親は炭屋をやっていていたが、ほとんど収入がなく、ただただ呑んだくれていた。
貧しさゆえかいじわるかはわからないが、継母からお弁当を持たせてもらえず、昼休みになると「家でごはんを食べてくる」と嘘をつき、学校の周りをぐるぐる歩いて時間を潰したそうだ。

 

焼酎のただただ憎し父酔へば
泣きたくなる父に代りて炭かつぎ
炭俵かつぐ乳房を縛されて
墓もなき母の忌日の野菊咲く

 

実母の墓もない、というのはどういうことだろう。

それほど貧しかった…、ということであろうか。

しかし、持ち前の明るさから、多くの俳句の仲間から愛され、晩年は幸せだったようだ。

エピソードをいくつか知っている。
あやは若い頃、毛糸編みが趣味だった。
しかし、その編み物はすべて人にプレゼントしていた、とあやをよく知る人から聞いた。

また、「春嶺」句会にはいつも50名近い人が参加したそうだが、主宰のあやはよく遅刻した、という。
その理由は、みんなの分だけ「鯛焼き」を買う為だった。
いつもお店に50人分の鯛焼きを作ってもらい、そのため、いつも時間がぎりぎりになった、そうである。

 

さて、掲句はあやの代表作として知られている。

いかにも「路地裏の俳人」らしい作品だ。

さきほども紹介した「向日性」がある。

白粉花は夏の終わりから秋にかけて咲く。

昔、お化粧の白粉(おしろい)の原料としていたことから、この名がついたそうだ。
私などは子供の頃、花の下についている丸い部分を引っ張ると、細い糸が出てくるので、それを花ごと空に投げ、「パラシュート」に見立ててよく遊んだ。
この句の「おしろい」は、暑さが少しおさまり、ほのかに秋が訪れている下町の「路地」の空気をよくあらわしている。
「子供が育つ路地」という表現が何よりいい。
とても清々しいではないか。

子供は自然が育て、親が育てる。
しかし、下町は「路地」が育ててくれる。
今ではそういう感じはなくなってしまっているのかもしれないが、下町生まれの私にはよくわかる。

内職のおばさんもいれば、三味線を弾くおばあさんもいる。
自宅兼小さな町工場でおじさんが働いている。
猫が暇そうにあくびをしている。
ときどき酔っ払いや偏屈なじいさんが通る。
夜になれば談笑の声や、親子喧嘩の声が聞こえ、夜が更けると、ほろ酔いの下駄の音が聞こえる。
それらの物音の中で、下町の子は育つのだ。
飲んだくれで働こうとしない父や、継母との確執で苦しみながら、彼女もまた「路地」に育てられたのである。

その他の作品も紹介しておこう。

 

旋盤のこんなところに薔薇活けて
たんぽぽなんか踏まれ鉄材運ばるる
二階より見られて父と炭をひく
美しき月夜の屋根に炭団干す
処女のごと自由奔放夏の川
尻の汗疹かゆしと女工ら笑ひあふ
路地の子が礼して駈けて年新た
女工たち声あげ入りて柚子湯たり
父病めり壁にオーバーすがりつき
炭俵担ぐかたちに父逝きし
もう炭をかつぐことなし父逝けり
路地に生れ路地に育ちし祭髪
蝶来たり路地の奥より産声す
銭湯で御慶を交す路地育ち
蚊帳渡る風の青さに目覚めけり
大き足布団はみ出し継母逝けり
継母の忌の素麺つめたくつめたくす
野菊摘み来世は父母に甘えたき
香水をひとふりくよくよしてをれず
梅雨深くいまはの一語「ありがたう」
渾身に鶴舞ひ天地覚めきりぬ
根が煮上り星がきれいです
恋遂げし鶴かも高く高く翔つ
毛糸選るたのしさ姪に子が生まれ
眠くてねむくて泣く子に廻る風車
待つと言ふことに馴れつ子春を待つ
路地の葬掃いても掃いても花が散る
朝顔やさみしがりやで路地住まひ
戻りたる命大事に髪洗ふ
若い恋人見つかるやうにと初参り
眼帯をとれば秋天青し青し

今週の一句~流燈(りゅうとう) 寺山修司

流すべき流燈われの胸照らす   寺山修司(てらやま・しゅうじ)

(ながすべき りゅうとう われの むねてらす)

 

寺山修司は歌人、詩人、劇作家であったが、彼の文学の原点は「俳句」だった。

中学時代から俳句を始め、高校時代に「牧羊神」という文芸誌を創刊、また、全国学生俳句会議を結成した。

私の記憶では、前「河」編集長の佐川広治、現「浮野」主宰の落合水尾氏などもこの会に参加していた。

今、充実の活動を見せている80歳前後の世代が、寺山となんらかの形でつながっていた人が多いのである。

うろ覚えだが、こんなエピソードを聞いた。

飯田龍太の元に、寺山修司から連絡があり、学生俳句大会の選者の依頼があった。

龍太はこころよく引き受けて、送られてきた作品を見た。

寺山の作品が他の作品より優れていた。

が…、どれも以前に見た作品であった。

寺山の作品は高校時代より評判を呼び、龍太の目にも入っていたのだ。

龍太はその旨を書き、作品を送り返した。

主催者である寺山が、規範を破っていることに納得がいかなかったのである。

このエピソードは二人の生き方を象徴するようで、好きなエピソードだ。

寺山は早稲田大学入学後、短歌に転向し、以後、時代の寵児となった。

掲句も学生時代の作品。

「流すべき」とは、「流離」の象徴であろうか。

普通、「流燈」というと亡くなった人の魂を慰めるものであるが、(もちろん、この句もそうであるが…)この「流すべき」には、生きる者、亡くなった者に共通する「流離」の思いがある。

そこが斬新。

生きる者も、若者の自分であっても、そして死者も、「流離」してゆくものである、という印象が私にはある。