背泳ぎに空を見てゐる原爆忌 大森理恵(おおもり・りえ)
(せおよぎに そらをみている げんばくき)
昭和20年8月6日は広島に原爆が投下された日である。
9日には長崎に投下された。
死者30万人という未曽有の惨事であった。
海で「背泳ぎ」をしたことがある方なら経験があるだろう。
両耳が海に浸かり、周囲の音は何も聞こえない。
通り過ぎてゆく波の音、海の音なのか、空の音か、「ゴーッ」という、奥から湧いてくるような音。
視野にはギラギラとした夏空と、盛り上がる入道雲の群…。
入道雲が、原爆の「きのこ雲」に見えたのかもしれない。
しかし、それ以上に、背泳ぎをした時だけに聞こえる、雑音の無い、空や海の深い「沈黙」…、私はそこに鑑賞の重点を置きたい。
作者は、その「沈黙」の音に、一瞬にして消えてしまった30万人もの、悲しき命の「沈黙の声」を聞いたのではないか。
そして、人間たちが織りなす戦争という愚かしさと、それを見つめて来た空や雲の沈黙を…。
この句には、「生身」の人間の声や生活の音、文明の音などは一切遮断されている。
空と雲と海の音だけ…。
背泳ぎはある意味、今、生きている人間の命の「躍動」でもある。
しかし、「原爆忌」との「取り合せ」により、その躍動する命も一瞬のうちに消え去ってしまうということがある、という不安をも描いている。
鎮魂の思いや、戦争反対の思いとともに、生と死という表裏一体の世界にまで踏み込み、文学的作品にまで昇華しているところが、この句の素晴らしさである。