しぐるるやしやぶしやぶ肉は近江牛 吉田鴻司(よしだ・こうじ)
(しぐるるや しゃぶしゃぶにくは おうみうし)
なんとなく、「おうみぎゅう」と言ってしまうが、本来は「おうみうし」と言うらしい。
「近江牛」はいわずとしれた「三大和牛」の一つ。
さぞ、美味だったであろう。
故・吉田鴻司「河」主宰代行の名吟。
ただ、この句は、僕くらいのレベルではどうにもうまく説明できそうもない。
ただ、(言訳になるが…)俳句は「韻文」であるから、本当にいい句というのは、「散文」では説明できないのである。
古池や蛙飛び込む水の音 松尾芭蕉
この句を散文で見事に解説したものは、かつて誰もいない。
それと同じである。
もともと「散文」で解説できるならば「韻文」である必要がないのだ。
いい句はつねに散文を「拒絶」する「孤高さ」がある。
こまかいことを言えば、「シ」音の連続、「しぐれの寒さ」から「しゃぶしゃぶの暖かさ」への「転換」、「しぐれ」という「雅」から「しゃぶしゃぶ」という「俗」への転換をなした「雅俗混合」だのテクニック的なことは言えるが、そういうことが本質ではない。
こういう風景を想像してみる。
初冬の頃、近江を旅し、その夜、近江在住の弟子あるいは俳友と会う。
その人は、師をもてなすため、地元で有名な「近江牛」の店へ案内した。
近江であるから、琵琶湖のほとりであろう。
夜はにわかに冷えてくる。
しばらくすると、格子の外からパラパラパラと雨音が聞こえてきた。
近江時雨ですな…。
と誰かがつぶやく。
感動したのだろう。
「時雨」とは簡単に言えば「冬のにわか雨」のことだが、ただ、それだけではない。
芭蕉の忌日を「時雨忌」というが、「時雨」には芭蕉を含め、和歌の時代以来、先人たちが愛し、磨き上げてきた「情緒」というものがある。
「時雨」は古今集依頼、詩歌人がもっとも大事にしてきた「雅」の一つなのだ。
日本酒の杯を交わしあえば、しゃぶしゃぶ鍋の湯も煮立って、豊かな湯気があふれてくる。
先生、さあ、どうぞ。
とすすめられ、近江牛を湯につける…。
しぐるるやしやぶしやぶ肉は近江牛
この句は、
時雨の近江への、そして近江の弟子への「ご挨拶」。
近江牛という豊かな食を育てた近江の風土へのご挨拶である。
そして、
一期一会の縁のありがたさ
もてなしの心への感謝
…そういうものすべてを含めた近江の「国誉めの句」なのである。