万巻の書のひそかなり震災忌 中村草田男(なかむら・くさたお)
「震災忌」とは、大正12年9月1日の相模湾西部を震源とする大地震、いわゆる「関東大震災」で亡くなった人を悼む日である。
東京だけでも約7万人の死者を出した。
現在は「防災の日」として、国民の防災意識を高める日となっている。
中村草田男(明治34年(1901)~昭和58年(1983))は清国領事の父・中村修の長男として、中国福建省に生まれた。
本名は清一郎。
その後、両親の故郷・愛媛松山、東京青山、ふたたび松山へ移住。
東京大学国文学卒。高濱虚子に師事し、「ホトトギス」に入会。
昭和26年「萬緑」を創刊、主宰。
「ホトトギス」の客観写生を学びつつ、ニーチェなどの西洋思想からも影響を受け、生活や人間性に根差した句を展開した。
石田波郷、加藤楸邨らとともに「人間探究派」と呼ばれた。
日野草城との「ミヤコ・ホテル」論争、加藤楸邨との戦争責任論争、第二芸術論論争、前衛俳句論争、根源俳句論争、山本健吉の「かるみ」への反発など、句作、論争ともに近代俳句の主導的役割を担った。
成蹊大学教授。朝日俳壇選者。俳人協会初代会長。
句集に『長子』『火の鳥』『萬緑』『来し方行方』などがある。
草田男は哲学はもちろん西洋文学、日本の古典にも精通していた。
それだけに「万巻」というのは説得力がある。
深読みすれば「万巻」というのは「万人」をもイメージする。
「万巻の書のひそか」は「万人の命のひそか」とも通じる。
また、「万巻」は「あらゆる知識」を象徴している。
しかし、自然の力は、それをも凌駕する…とも考えられる。
草田男の句に、
なにげなく…
という句はない。
そこが「人間探求派」であろう。
〈草田男の他の主な作品〉
乙鳥はまぶしき鳥となりにけり
蜩の鳴き代りしははるかかな
校塔に鳩多き日や卒業す
家を出て手を引かれたる祭かな
あたたかき十一月もすみにけり
降る雪や明治は遠くなりにけり
夏草や野島ヶ崎は波ばかり
蟾蜍長子家去る由もなし
香水の香ぞ鉄壁をなせりける
玫瑰や今も沖には未来あり
冬の水一枝の影も欺かず
秋の航一大紺円盤の中
貝寄風に乗りて帰郷の船迅し
そら豆の花の黒き目数知れず
妻二夜あらず二夜の天の川
父となりしか蜥蜴とともに立ち止る
雪女おそろし父の恋恐ろし
たんぽぽのかたさや海の日も一輪
金魚手向けん肉屋の鉤に彼奴を吊り
萬緑の中や吾子の歯生え初むる
泉辺のわれ等に遠く死はあれよ
すつくと狐すつくと狐日に並ぶ
少年の見やるは少女鳥雲に
虹に謝す妻より他に女知らず
毒消し飲むやわが詩多産の夏来る
膝に来て模様に満ちて春着の子
白鳥といふ一巨花を水に置く
勇気こそ地の塩なれや梅真白
伸びる肉ちぢまる肉や稼ぐ裸
炎熱や勝利のごとき地の明るさ
蜻蛉行くうしろすがたの大きさよ
葡萄食ふ一語一語の如くにて