句集・結社誌を読む15~「蛮」46号

「蛮」46号

「蛮」(ばん)46号

主宰 鹿又英一(かのまた・えいいち) 編集 佐藤 久

結社誌・季刊・通巻46号・神奈川県横浜市・創刊 鹿又英一

 

「蛮」という結社名からして「異質」である。

誌名の由来は知らないが、「蛮」というと「野蛮」「野蛮人」「蛮行」などという言葉が思い浮かび、荒々しいイメージがある。

俳句において「アウトロー」になることを厭わない、強靭な意志を感じる。

逆の見方をすれば、「荒々しさ」を失い「雅化」(みやびか)(?)してしまった現代俳句に対するアンチテーゼとなる、というメッセージも感じる。

 

そうなのである。

俳句はもともと「荒々しい」文芸だった。

「雅の和歌」に対する「アンチテーゼ」として生まれたのが「俗の俳諧」である。

故・上田五千石さんは「感動」とは「命が脅かされそうなもの」だと言い、俳句に必要なのは「野生」だ、と言った。

現代俳人で、そういう野生や荒々しさを意識しているのは数名程度、その一人が鹿又主宰であろう。

 

松尾芭蕉も「荒々しさ」を大切にした。

あまり知られていない事実だが、芭蕉は晩年、「かるみ」ではなく「あらび」を大事にするよう、弟子への手紙で書いている。

 

ブログ・芭蕉が「かるみ」の次に目指したもの

 

そういう意味で「蛮」こそ、現代俳句が見失ってしまった「あらび」を目指した、唯一の存在とも言えよう。

 

主宰作品「建具屋」より

葉桜の風や担担麵辛き

浜日傘記憶の端に立つてゐる

東京のほころびてゐる雲の峰

 

見事な「あらび」である。

「あらび」について、芭蕉はこまかく言っていないが、推測するに…、まことにおおまかで申し訳ないが、

 

一句が「ツルッ」としておらず「ザラッ」としているもの

 

とは言っている。

一言で言えば「聖なるもの」と「俗なるもの」とのぶつかり合い、と言えるだろう。

 

会員作品より

祖父になる日を待っている子供の日   藤田裕哉

人体を抜かれて水着を干されをり    小野塚達希

春潮のひしめく入江鳶の声       岡本洋美

空港の奄美の乙女夏来たる       磯かおる

田水引く父の背中に迷いなし      岩佐朱美

熱帯魚化学反応して育つ        金子 崇

乾杯のグラスに映る雨蛙        向井虹蜆

 

「蛮」は現代仮名遣いでも歴史的仮名遣いでもOK。

主宰作品も「特別枠」ではなく、他の会員と同列に掲載されている。

一言で言えば「自由」である。

編集長時代、印象に残っていることがある。

たまたま鹿又主宰とお会いし、中国地方にも支部(鳥取だったか、島根だったか…)があり、「浴衣吟行」をするのだ、という。

それなら誌面を提供しましょう、ということになり、句会レポートを後日、送ってもらった。

その時に会員が、皆、若い方がたくさん参加していることに驚いた。

若者同士の句会でも、地方の一句会で、これほどの若い人を俳句に集めるのは困難であろう。

鹿又主宰の指導力や企画力、カリスマ性に感嘆し、以来、世代を超えて活躍出来る逸材と思った。

鹿又主宰の今後の活躍にも注視したい。

 

 

句集・結社誌を読む15~「蛮」46号」への2件のフィードバック

  1. 林様、お忙しいところ恐縮なのですが、できたら、このホームページからクリック一回で飛べるように、ブログのURLを新しもの(アメブロ)に修正していただけませんか?

    • R夏さん コメントありがとうございます。実は今、HPがトラブってまして…。今、再構築中です。完成次第、アメブロに飛べるよう直します。もうちょっと時間がかかりそうです。よろしくお願いいたします。

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