「蒼海」創刊号
主宰 堀本裕樹 編集長 浅見忠仁
結社誌・季刊・創刊号・東京都千代田区・創刊 堀本裕樹
若手のトップを疾駆する俳人・堀本裕樹氏が結社誌を創刊。
夏井いつきは別にして、彼ほどマスコミで活躍している俳人はいない。
それは俳句の普及、発展に大きく貢献している。
今回、満を持しての主宰誌創刊である。
さすがに俳壇のスター。
特別寄稿に錚々たる俳人の名が並ぶ。
池田澄子
茨木和生
上野一孝
宇多喜代子
小川軽舟
小澤 實
櫂未知子
片山由美子
黒田杏子
高橋睦郎
西村和子
星野高士
随筆にも以下の方々の寄稿が続く。
鎌田東二
石田 千
中上 紀
長嶋 有
穂村 弘
又吉直樹
町田 康
主宰作品「さやけかれ」より
桔梗を剪るときこころさやに鳴る
切り岸を駈けのぼりくる虫の声
爛爛と海見よそこに颱風来
きりもみの鴎に深空澄みにけり
最果てを見むと沖見るさやけかれ
「創刊の辞」より抜粋する。
太陽の下、無垢に煌き渡る海原に眼を奪われるとき、このような雄大で深く真っ青な一句をいつか物することができればと思いを馳せる。
「蒼海(滄海)の一粟」という成句がある。
これは広大な青海原に、極めて微小な一粒の粟が漂っていることになぞらえ、宇宙における人間の存在の微塵を譬えている。
天地のあわいに佇むとき人間は、ごく小さな儚い存在となる。
そのことを自覚し、自然と交感しながら俳句を詠みたい。
(後略)
彼とは間接的な思い出がある。
私が「俳句現代」の新米編集員だった時だ。
俳句現代賞という若手のための登竜門の賞があった。
彼はそこに「熊野曼荼羅」という作品で応募した。
最終選考まで残ったが、受賞はならなかった。
会社関連のパーティーの時、取引のデザイナーだったか、外部校正者だったか忘れたが、私のところに来て、
私は彼(堀本裕樹)の作品が一番よかった。
なぜ、取れなかったんでしょう?
と私に聞いた。
私は選考委員ではないし、賞に編集者の思惑は関わってはいけない。
(まあ、そのころ、私は新米で、関わることなんて、はなから出来ないのだが…。)
その時に私なりの見解を述べた。
選考委員の出した結果を尊重しつつ、無難な答えを返した記憶がある。
ただ、私も彼の作品は気になっていて、内心、その人と同じ思いはあった。
その後、彼は私が「河」を辞めた頃、「河」に入会した。
私とは入れ替わったような感じで、面識はなかった。
その後、めきめき頭角を顕し、わずか数年で「河」編集長に抜擢された。
その後、「河」を退会し、私が編集長を務める雑誌の新人賞に応募し、見事、受賞した。
そのタイトルが、
熊野曼荼羅
だった。
受賞作は句集にして出版するという特典があり、句集「熊野曼荼羅」が出版され、その句集は俳人協会新人賞を受賞した。
別にそれだけではないが、そのころから彼を注目を浴び、一気に俳壇期待の星へと飛躍した。
熊野曼荼羅
というのは、何か私にとっても思い入れのあるタイトルである。
〈会員作品〉より
白髪のサマードレスの清らなる 加藤ナオミ
カレー屋の跡にカレー屋二月尽 白山土鳩
あの鳥はきつと海まで青葉風 森沢悠子
向日葵を手向け何から話そうか 加留かるか
ビッグデータのゆらめいて蝶生る サトウイリコ
子蟹らの順に動かすはさみかな 会田朋代
どの句にも類想というものを感じない。
堀本主宰の指導の徹底ぶりが伺える。
どれもが「現代」である。
昨今は「現代」「今」を意識するあまり、俳句の根源を無視する軽薄さがあるが、「蒼海」作品にはそういうものがなく、一句に重厚感がある。
ここから新しい才能がたくさん生まれてくるような予感がある。