「徳島文學」vol2
編集兼発行者 佐々木義登 発行所 徳島文學協会 定価1500円+税
徳島から発信、自由で新しい文芸誌のカタチ
年1回刊行の文芸誌。
徳島文學協会が昨年、創刊し、今年、第二号を刊行した。
地方の同人雑誌と商業文芸雑誌の長所を融合させる試みにこだわっている。
と編集後記にある。
また、原稿募集の欄では、
地方の文芸誌としては類を見ない商業雑誌に匹敵するクオリティの雑誌を目指す。
とある。
俳句の世界だけを見てもわかるように、俳句商業誌を発行する出版社はすべて「東京」にある。
日本人は「ブランド好き」…、「首都」から刊行というだけで、ランクが一つ…いや、とてつもなく上がるのである。
私も昨年まで東京の俳句商業誌を発行する出版社にいて、そういうことは何回か話題に上ったことがある。
いい悪いではなく、それが現実である。
「徳島文學」は、そういった偏見を打ち破り、それぞれの地が文化や芸術、文学の華を咲かせることを目的ともしているだろう。
誌面だが、
青来有一
藤野可織
小山田浩子
という芥川賞受賞作家が小説を発表している。
一方、招待枠以外は、徳島文學協会会員の応募原稿を審査し、掲載している。
また、小説だけではなく、短歌、俳句、エッセイ、書評も掲載している。
感銘した俳句作品を以下に、
涼野海音「信長忌」
スリッパの奥まで光雛の家
剪定の一枝の先の太平洋
オルガンの蓋へ落ちゆく紙風船
花束のやうに猫の子抱きあぐる
海鳥の声散りゆけりソーダ水
「蠅の王」棚に古りたる登山宿
海の日や炎の色のソーセージ
原 英「野末」
落ちそうな瓦落ちるや秋の蝶
雨降れば流れるところ祈り虫
底紅の底から濡れてくる花弁
雨の月鉄塔深く刺さりけり
野の音の一つ二つは吾亦紅
秋水や着弾地点何も無し
魚井遊羽「冬桜」
寒紅やふつうの日々に足す光
十二月ちいさくなつてゆく強気
吸ふ息をまつすぐ落とし初硯
地方発の文芸誌を読む機会は時折あるが、感じるのは「地方発」ということをあまりに意識し過ぎるきらいがある。
俳句で言えばやたら地名を多用したり、田舎のいい風景を詠いあげたりする。
徳島であれば「鳴門の渦潮」だったり「阿波踊り」だったり、山形であれば「月山」だったり「最上川」だったりする。
ただ、そういったものが強調され過ぎて、読む者としては、それが「押しつけ」…、なんとなく「どうだ! ここはいいところだろ!」「ここの俳句だって捨てたもんじゃないだろ!」とぐんぐん迫ってくる感じがあり、やや食傷気味になることがある。
その風土詠に斬新さや新しい試みが感じられればいいのだが、過去の「枠」から出ていないように、生意気ながらも感じることが多い。
「徳島文學」のいくつかの作品を読むと、そういったことはあまり意識されていない。
俳句作品を見ても「徳島ならでは」「四国ならでは」「地方ならでは」などという意識は薄く、日常や生活、身の回りの風景を気負いなく表現している。
簡単に言えば純粋に「文学の質」を追い求めている。
私もそのほうがいいと思う。
また、三氏の俳句作品も「詩」を強く意識しているようにも思える。
もちろんれっきとした「俳句」ではあるが、いわゆる「風土」「自然」とか「歴史」とかを根本にするのではなく、「詩」であることを中心に据えている感じがする。
最近の「俳句」の世界は、短歌、川柳、小説など他のジャンルを意識することはない。
しかし、近代俳句史を見れば、俳句の特筆すべき運動には、小説や詩、短歌などから強く刺激を受けてきたのは明白だ。
正岡子規の俳句革新運動は西洋文学や西洋美術を強く意識している。
河東碧梧桐の新傾向俳句運動や荻原井泉水の自由律俳句は新体詩を念頭に置いている。
水原秋桜子、山口誓子の新興俳句運動は短歌革新運動を模範する一面が多々あった。
また、加藤楸邨の提唱した「真実感合」などは、歌人・斎藤茂吉の「実相観入」の影響があると考える。
そういう意味では、この「徳島文學」は地方文芸の再生とともに、他文芸との障壁なき交流によって、新しい俳句の萌芽となることをも期待出来るであろう。