今週の一句~冬桜(ふゆざくら) 渡邉美保

矢印の最後は空へ冬桜    渡邉 美保(わたなべ・みほ)

 

作者は第29回俳壇賞を受賞している。

しっかりとした写生力を底力に、

 

けむり茸踏んで花野のど真ん中

すかんぽの中のすつぱき空気かな

拾ひたる昼の蛍を裏返す

割るためにバケツから出す薄氷

紋白蝶呼んで弁当開きけり

 

など、多彩な作品を展開している。

 

掲句。

清らかで、のびのびとした感性が冴える作品。

公園などの散策風景であろう。

「順路」などを示した「→」に沿って進んでゆくと、最後は「↑」…。

つまり、最後は「天」を指して終わっていた…、というのだ。

 

誰かが「いたずら」をした、と考えてもいいが、それでは面白くない。

これは「虚」、つまり「文学的虚」と考えるべきである。

ここに作者の詩の世界の柔軟さを見ることが出来る。

 

一部、いや、多くの俳人が、今もって「虚」を軽んじ、嫌うのは残念なことである。

「虚」と「嘘」を混同している。

「虚」こそ、古代より詩歌人の美意識、詩精神が作りあげて来たものではないか。

大和の神々、京のもののけ、鎌倉の怨霊…、これらはみな先人たちが作り上げて来た「虚」である。

神々しい清らかな風景に出会った時、神を感じ、周囲1メートルしかない夜の灯りの他はすべてもののけが支配していると信じ、切通を抜ける風や竹藪の音に無念で散ったもののふの憾みの声を聞く。

これらはすべて先人たちの感性が作り上げた虚である。

もし、私たちの世界、特に文学世界の中に「虚」がなければ、どれほど貧しくつまらないものかを考えてみるといい。

「源氏物語」だって「おくのほそ道」だって大いなる虚である。

ここはそのまま、まるで神の啓示のごとく矢印が「天」を向いていた、と考えるべきである。

 

季語「冬桜」もいい。

冬の抜けてゆくような青空が見えるからだ。

輝くような青空の中にかすかに震える冬桜の白が神々しい。

俳句…というか、日本の文学には「虚に遊ぶ」という心が必要であることを示した一句と言えよう。

今週の一句~十二月(じゅうにがつ)  森 澄雄

さまざまの赤き実のある十二月    森 澄雄(もり・すみお)

 

いわれてみればそうだと思う。

南天の実、一位の実、青木の実、みな赤い。

最近では街路樹のアメリカ花水木の赤い実や、庭のピラカンサなども赤い実をつける。

あたりが冬ざれてゆく中、これらの実はどこか、寒さを和らげてくれてる温かみを覚える。

 

松尾芭蕉の句に、

 

菊のあと大根の外更になし

(きくのあと だいこんのほか さらになし)

 

がある。

菊のあとには大した花はない…、というが大根の花があるではないか、と言っている。

今の私たちは、外国から入って来たシクラメンやポインセチアなど、冬でも眼を楽しませてくれる植物に囲まれている。

しかし、芭蕉の句のように、昔は菊など、秋の花が終われば、春になるまで「これ」という花はなかったようだ。

さぞ殺風景であっただろう。

それはそれで良かったのか、今のほうがいいのか、それは個人の考えだろう。

澄雄さんの句がいいのは、寒々とした中に「あたたかみ」を見い出していること。

俳句を作ることを「ひねる」という。

これは俳句特有の言い回しで俳句の特性をよく表している。

小説をひねる

詩をひねる

短歌をひねる

とは言わない。

俳句だけが「ひねる」ものなのだ。

 

聖から俗(またはその逆)

静から動

明から暗

 

などのように…。

この句は、

 

から暗

から寒

 

と言えよう。

寒いからと言って、閉じこもっておらず、積極的に生命の息吹を感じる。

澄雄さんといえば近江吟が有名。

澄雄さんは晩年、寝たきりになっても近江を思い、近江を詠った。

風景に触れることは命に触れることである。

澄雄さんの句にはそれを生涯貫いている。

今週の一句~十一月(十一月) 中村草田男

あたたかき十一月もすみにけり  中村草田男(なかむら・くさたお)

 

(あたたかき じゅういちがつも すみにけり)

 

「十一月」は冬の季語、「あたたかし」も冬の季語。

こういう句を「季重なり」(きがさなり)と言う。

一句の中に「季語」が複数入っているのである。

一般的に、「季重なり」はよくない、避けるべきと言われる。

しかし、

 

目には青葉山ほととぎす初鰹   山口素堂

 

は「青葉」「ほととぎす」「初鰹」と夏の季語が三つも入っている「名句」である。

私の愛誦句、

 

身にしみて大根からし秋の風   松尾芭蕉

 

も「身に入む」(秋)「大根」(冬)「秋の風」(秋)と季語が三つもある。

松尾芭蕉も高浜虚子も、季重なりはたいした問題ではない、と述べている。

 

この句は、「あたたかき」がいい。

もう少し言うと「過去形」の表現がいい。

あたたかかった

という表現に、作者の心安らかな思いが感じられる。

冬の暖かな一日を「小春」「小春日和」と表現するが、この「小春」は十一月だけに使うべきで「小春月」とは十一月のことである。

それゆえに説得力がある。

 

あたたかき十二月

 

では、リズムももちろんよくないが「共感」という点で、ダメなのである。

今週の一句~芭蕉忌(ばしょうき) 野村喜舟

芭蕉忌や遅れ生まれし二百年  野村喜舟(のむら・きしゅう)  

(ばしょうきや おくれうまれし にひゃくねん)

松尾芭蕉が亡くなったのは元禄7年10月12日。

新暦では11月29日であった。

そして今年は11月19日…つまり「今日」が芭蕉忌である。

松尾芭蕉が凄いことは誰もが知っているが、では、いったいどんな功績があるのだろうと考えると、答えられる人は少ないのではないか。

もちろん様々あるが、私は、

かるみの実践

と、

高悟帰俗(こうごきぞく)の実践

にある、と考える。

 

まず「かるみ」だが、簡単に言えば、

和歌、漢詩、諺などにもたれかからず「17音」で独立した「詩の世界」を完成させた。

ということである。

(「かるみ」については二説あり、そういうものではなく、「軽々とした詩境」をいうのである、という説もあるが、その説は私は取らない。)

芭蕉以前の俳諧は「和歌」「漢詩」「諺」などを念頭とし、それをひねった…つまり茶化した言葉遊びの文学だった。

 

芭蕉の、

古池や蛙飛び込む水の音

は、最初「蛙飛び込む水の音」だけが出来、上五に悩んでいた。

一番弟子の宝井其角は「山吹や」を提案した。

山吹や蛙飛び込む水の音

其角の意図は、

かはづなくゐでの山吹ちりにけり花のさかりにあはまし物を   よみ人しらず

都人きてもをらなむ蛙なくあがたのゐどの山ぶきのはな     橘公平女

忍びかねなきて蛙の惜むをもしらずうつろふ山吹のはな     よみ人しらず

澤水に蛙なくなり山吹のうつらふかげやそこにみゆらむ     よみ人しらず

みがくれてすだく蛙の諸聲に騒ぎぞわたる井手のうき草     良暹法師

沼水に蛙なくなりむべしこそきしの山吹さかりなりけれ     大貳高遠

山吹の花咲きにけり蛙なく井手のさと人いまやとはまし     藤原基俊

九重に八重やまぶきをうつしては井手の蛙の心をぞくむ    二條太皇太后宮肥後

山吹の花のつまとはきかねども移ろふなべになく蛙かな     藤原清輔朝臣

かはづなくかみなびがはにかげみえていまかさくらん山ぶきの花 厚見王

あしびきの山ぶきの花ちりにけり井でのかはづはいまやなくらん 藤原興風

など、和歌では「山吹」と「蛙鳴く」は「セット」だったのだ。

其角はそれを踏まえ、

あらら、この蛙は鳴かないで、水に飛び込んじゃったよ!

と「パロディ」にして見せたのである。

このことからも「俳諧」は「和歌」のパロディであったことがある。

私はこの取り合わせに其角の切れ味を感じるが、ご承知の通り、芭蕉は、それを採用せず、ただ、

古池や

とした。

これが「和歌」「漢詩」などのアンチテーゼから脱却した「蕉風俳諧開眼」の瞬間である。

 

もう一つの「高悟帰俗」。

これは芭蕉の言葉、

高く心を悟りて俗に帰るべし(服部土芳『三冊子』より)

という俳諧精神の確立である、

俳諧の本質は、

雅俗混合(がぞくこんごう)

である。

一句の中に「雅なもの」「俗なもの」とが混在していることである。

「おきれいごとだけではいけない」「俗なだけではいけない」ということである。

詩心は常に高く、しかし、俳諧に詠む題材は「俗」から離れてはいけない。

ということである。

これが、雅な「やまとことば」で「雅な世界」を詠う「和歌」と一線を画しているのである。

極端に言えば、和歌は「うぐいす」は詠うが、「犬の糞」などは詠わない。

雅ではないからである。

しかし、俳諧は「うぐいす」も詠えば「犬の糞」も詠う。

そして、それを「詩」にしてみせる。

これが「俳諧」の素晴らしさ、芭蕉俳諧の素晴らしさである。

 

昨今、俳諧、俳句における「アニミズム」が注目されているが、「アニミズム」とは簡単に言えば、

あらゆるものに神聖なものを見い出す姿勢

である。

美しいもの、美しくないもの、高貴なもの、俗なもの、すべて「平等」に生命の尊さ、輝きがあるという考えだ。

すべて平等に生命の尊さを認め、詩としての「美」を見い出したのが芭蕉であった。

 

て、掲句。

野村喜舟(明治19年(1886)~昭和58年(1983))は石川県金沢市生まれ。

本名は喜久二(きくじ)。

幼児期に東京に移り浅草、小石川に住んだ。

小石川砲兵工廠に就職し、転勤の為、福岡県小倉(現・北九州市小倉区)に移住し、終戦とともに退職し、以後は小倉に住んだ。

42年より夏目漱石門下の松根東洋城の指導を受け、東洋城の「渋柿」創刊時に課題詠選者として参加している。

昭和27年、東洋城引退後の「渋柿」主宰に就任。

同じく伝統俳句を標榜する高浜虚子の「ホトトギス」とは一線を画し、〝松尾芭蕉直結〟の精神を提唱した東洋城の意志を継ぎ、活躍した。

東洋城が雄大な風景句を得意としたのに対し、生活や人情などの人事句の名手、連句の名手として知られる。

句集に『小石川』『紫川』『喜舟千句集』などがある。

私は、喜舟は、久保田万太郎と並ぶ俳句の天才だと思っている。
この人のことはもっともっと顕彰されていい。

「二百年」というのが面白い。
芭蕉が生まれたのが寛永21年(1644)、喜舟が生まれたのが明治19年(1886)、だいたいの「200年」である。

私もそうだが、多くの俳人にとって芭蕉は永遠の憧憬である。

喜舟だったら芭蕉先生も舌を巻くような作品を作ったに違いない。
「遅れ生まれし」にはそんな喜舟の自負ものぞけるが、「200年」というのが味噌で、そんなに遅れて生まれてはどうにもならない…というユーモアがあるだろう。
茶目っ気と言ってもいい。

正岡子規、高濱虚子の「ホトトギス」とは一線を画し、「芭蕉直結」…芭蕉の俳句をただひたすら目指したのが、「渋柿」派の俳句であり、喜舟の師・松根東洋城の俳句であり、喜舟の俳句である。
私はこの人は「かるみ」最後の人だと思っている。
久保田万太郎も草間時彦などにも「かるみ」の傾向は見られるが、芭蕉の「かるみ」とは少し違う。
喜舟の「かるみ」は芭蕉の「かるみ」そのままであるように思える。

 

年は芭蕉が亡くなって325年である。

 

今週の一句~炬燵(こたつ) 正岡子規

われは巨燵君は行脚の姿かな   正岡子規(まさおか・しき)

(われはこたつ きみはあんぎゃの すがたかな)

 

この句の眼目、面白さは「君」という一語にある。

この「君」とは誰のことか、ご存じだろうか。

これは、

松尾芭蕉

のことである。

掛け軸、あるいは書物であろう。

冬の寒い一日、ぬくぬくと炬燵に入りながら、子規はそれを眺めている。

そこには、(おそらく奥の細道の)旅へと向かう芭蕉の姿が描かれていたのだ。

 

「行脚」とは僧侶が修行または布教の為、諸国を旅すること。

そこから派生して、ある目的で諸地方を巡り歩くこと、とりわけ、詩歌人が、諸国を巡り歩くことを意味するようにもなった。

芭蕉、小林一茶、種田山頭火を持ち出すまでもなく、俳諧師、俳人にとって行脚は最も大切なことだった。

余談だが、今、そのことを意識している俳人はまったくいない。

まあ、要するに「サラリーマン俳人」「行脚をしない俳人」ばかりになったわけで、(少なくとも私にとっては…)現代の俳句のつまらなさはそこにある。

 

さて、この句だが、子規が喀血した後か、その前かで、鑑賞はずいぶん違ってくるのではないか。

喀血前であれば、

おやおやあんた(芭蕉)はこの寒い中、旅に出るのかい。

僕は炬燵でのんびりさせてもらうよ…。

(あ~、あったかい)

となる。

喀血後であれば、

私にはもうあんたのように旅にでることが出来ないよ…。

となる。

 

ただ、この句が凄いのは、それだけではない。

芭蕉は、

旅は風雅の花

と言った。

風雅(ここでは俳諧のことだが…)に於いて、「旅」こそが最上のものだ、と言っている。

子規の心の中には、それが出来ない淋しさがある。

しかし、例え、旅に出られない身となっても、

あんたと同じ…、いや、それ以上の仕事をして見せる。

という覚悟を含んでいることだ。

あの高浜虚子でさえ、著書の中で、

俳句は芭蕉の文学

とはっきり言っている。

不心得者はともかく、俳諧・俳句史上に於いて、俳聖芭蕉を、

汝(なれ)

などとなれなれしく、対等に呼びかけた者はいない。

一茶などは、

芭蕉翁の脛をかぢつて夕涼

と詠んでいる。

芭蕉先生のおかげで、私はなんとかおまんまを食わせていただいています。

と述べている。

蕪村も一茶も虚子も、みな、芭蕉を崇めた。

しかし、子規だけは違った。

子規にとって芭蕉は、(変な言い方だが…)「悪友」のようなものだった。

そこに子規の凄さがある、と私は思う。

 

 

今週の一句~時雨(しぐれ) 吉田鴻司

しぐるるやしやぶしやぶ肉は近江牛       吉田鴻司(よしだ・こうじ)

(しぐるるや しゃぶしゃぶにくは おうみうし)

 

なんとなく、「おうみぎゅう」と言ってしまうが、本来は「おうみうし」と言うらしい。

「近江牛」はいわずとしれた「三大和牛」の一つ。

さぞ、美味だったであろう。

故・吉田鴻司「河」主宰代行の名吟。
ただ、この句は、僕くらいのレベルではどうにもうまく説明できそうもない。
ただ、(言訳になるが…)俳句は「韻文」であるから、本当にいい句というのは、「散文」では説明できないのである。

古池や蛙飛び込む水の音    松尾芭蕉

この句を散文で見事に解説したものは、かつて誰もいない。
それと同じである。
もともと「散文」で解説できるならば「韻文」である必要がないのだ。
いい句はつねに散文を「拒絶」する「孤高さ」がある。

こまかいことを言えば、「シ」音の連続、「しぐれの寒さ」から「しゃぶしゃぶの暖かさ」への「転換」、「しぐれ」という「雅」から「しゃぶしゃぶ」という「俗」への転換をなした「雅俗混合」だのテクニック的なことは言えるが、そういうことが本質ではない。

こういう風景を想像してみる。
初冬の頃、近江を旅し、その夜、近江在住の弟子あるいは俳友と会う。
その人は、師をもてなすため、地元で有名な「近江牛」の店へ案内した。
近江であるから、琵琶湖のほとりであろう。

夜はにわかに冷えてくる。
しばらくすると、格子の外からパラパラパラと雨音が聞こえてきた。

近江時雨ですな…。

と誰かがつぶやく。
感動したのだろう。

「時雨」とは簡単に言えば「冬のにわか雨」のことだが、ただ、それだけではない。
芭蕉の忌日を「時雨忌」というが、「時雨」には芭蕉を含め、和歌の時代以来、先人たちが愛し、磨き上げてきた「情緒」というものがある。

「時雨」は古今集依頼、詩歌人がもっとも大事にしてきた「雅」の一つなのだ。
日本酒の杯を交わしあえば、しゃぶしゃぶ鍋の湯も煮立って、豊かな湯気があふれてくる。

先生、さあ、どうぞ。

とすすめられ、近江牛を湯につける…。

しぐるるやしやぶしやぶ肉は近江牛

この句は、

時雨の近江への、そして近江の弟子への「ご挨拶」。
近江牛という豊かな食を育てた近江の風土へのご挨拶である。

そして、

一期一会の縁のありがたさ
もてなしの心への感謝

…そういうものすべてを含めた近江の「国誉めの句」なのである。

今週の一句~秋(あき) 与謝蕪村

笛の音に波もよりくる須磨の秋    与謝蕪村(よさ・ぶそん)

(ふえのねに なみもよりくる すまのあき)

 

元禄2年、松尾芭蕉は「おくのほそ道」の旅に出て、福井県敦賀市種の浜(いろのはま)を訪ね、

寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋

と詠んだ。

寂しさが勝っている

というのも変なものだが、芭蕉にとって、或いは「風狂の徒」にとって、「寂しさ」というのは、むしろ大事なものだったのかもしれない。

芭蕉の句でわかるように、

寂しさ

というと「須磨」だった…というか、「須磨」が代表的な景勝地であった。

何度も書くが、「寂しい」というのは、むしろ「素晴らしい」ことなのである。

蕪村の句は、その「寂しさ」が根底にある。

この句の笛は、その時、聞こえた笛かもしれないが、

青葉の笛

をイメージしているだろう。

「青葉の笛」は平敦盛(たいらのあつもり)愛用の笛である。

一応、紹介しておくと、この笛はもともと弘法大師(空海)が唐の国(今の中国)へ留学した時、唐の都・長安の青龍寺の竹(天笠の竹)で作ったものと言われている。

帰国した弘法大師は、これを嵯峨天皇へ献上し、嵯峨天皇は「青葉の笛」と名付けた。

その後皇族から平家の手に渡り、笛の名手であった敦盛へ渡った、と言われている。

源平合戦の折、敦盛は17歳で一ノ谷…つまり須磨近辺で行われた戦いに参加した。

平家は源義経率いる源氏軍の奇襲を受け、敦盛は、騎馬で海上の船に逃げようとしたが、敵将・熊谷直実に、

敵に後ろを見せるのは卑怯!戻れ!

と呼び止められ、討ち果たされた。

このシーンは源平合戦の名場面とされ、『平家物語』はじめ、能の『敦盛』、幸若舞『敦盛』や文楽や歌舞伎にも取り上げられている。

句の中の「波」は源平合戦の頃の波へとつながる。

また、『源氏物語』へもつながる。

いうなれば、この句は日本の詩歌人の心を凝縮した一句と言えるだろう。

 

 

今週の一句~蓑虫(みのむし) 高浜虚子

蓑虫の父よと鳴きて母もなし    高浜虚子

 

(みのむしの ちちよとなきて ははもなし)

 

蓑虫が鳴くことをご存知であろうか?

実は蓑虫は、

チチヨ チチヨ

と鳴く。

もちろん、嘘である。

ただ、古来より、そう鳴くと言われて来た。

蓑虫は別名「鬼の子」「鬼の捨て子」と呼ばれている。

清少納言『枕草子』には、

蓑虫、いとあはれなり

鬼のうみたりければ

という一文がある。

いくつかの歳時記や辞書を当たってみたが、「鬼の子」「鬼の捨て子」という名の由来は、この「枕草子」の一文が由来している、と書いてある。

これは清少納言の創作だろうか、或いは、当時、そのようなことが広く言い伝えられていたのだろうか。

それに調べてみると、「枕草子」の原文を見つけた。

蓑虫、いとあはれなり。

鬼の生みたりければ、親に似てこれも恐ろしき心あらむとて、親のあやしき衣ひき着せて、

「今、秋風吹かむをりぞ、来むとする。侍てよ」

と言ひ置きて逃げて去にけるも知らず、風の音を聞き知りて、八月ばかりになれば、「ちちよ、ちちよ」と、はかなげに鳴く、いみじうあはれなり。

意訳するとこういうことになるだろう。

蓑虫は憐れである。

蓑虫は鬼が生んだ子で、親鬼は、

「この子も、自分と同じように恐ろしい心を持っているだろう」

と畏れ、みすぼらしい衣を着せ、

「秋風が吹く頃、戻ってくるから、ここで待っていろ。」

と言い聞かせて、逃げ去ってしまった。

そんなことも知らず、蓑虫はひたすら風の音を聞き、秋になれば、

「父よ 父よ」

儚い声を挙げて鳴くのである。

その様子はとくに憐れをさそう。

この背景を知れば、虚子の、この句の哀れさが胸を打つ。

「父よ 父よ」と鳴いているが、お前には母もいないのだ…。

と言っている。

秋風に揺れる蓑虫の姿はどことなく、儚げで、何より「蓑」(枯葉)を纏っているというのが不可思議で、こういう創作が生まれたのだろう。

 

今週の一句~椋鳥(むくどり) 小澤 冗

椋鳥の賑はうて子の帰る頃    小澤 冗(おざわ・じょう)

 

「季寄せ」を読むと、大群をなして移動する鳥で、椋の実をついばむのでこの名がある、と書いてあった。

椋は成長が早く、大木になりやすい。

初夏に花が咲き、秋になり熟すと黒褐色の実をつける。

味は非常に甘く、美味である、という。

しかし、最近の椋鳥というと、駅前や繁華街の街路樹に大群で宿る鳥…というイメージがある。

その様は異常で、近くにいると恐ろしささえ感じる。

今や、秋、冬の都会の風物詩となっている。

 

掲句。

上記のような夕暮の風景であろう。

夕暮れの椋鳥の賑わう樹木の空を見上げている。

秋の夕ぐれは早い。

仕事や学業を済ませた子供たちもそろそろ家に帰ってくるころである。

そう考えれば、この寒々とした夕空もあたたかく感じる。

今、大きく騒いでいる椋鳥も、「わが家」に帰って来たのである。

「椋鳥」の賑わいも、今日一日を無事に過ごした家族の喜びの声かもしれない。

こうして考えると、生きとし生けるものすべてに「帰るところ」は必要なのだな、とあらためて思う。

 

 

今週の一句~秋(あき) 飯田蛇笏

誰彼もあらず一天自尊の秋       飯田蛇笏

 

(たれかれも あらず いってん じそんのあき)

 

蛇笏77歳での作。

この年に蛇笏は亡くなったので、ある意味、辞世の句と考えてもいい。

「秋の天」を詠んだ句で、これほど格調高く、抜けるような秋の青空を詠んだものは他にない。

「一天」というのがいい。

例えば、これを「青空」「大空」とかに変えてみても一句としては成り立つ。

しかし、この漢詩的表現である「一天」が格調高く、硬質な響きが一句に満ちている。

「青空」や「大空」では詩的空間が「横」に広がってしまうが、「一天」は「縦」に貫いてゆくような鋭さがある。

それが「秋」にはよく似合うと思うのである。

さらに言えば「自尊の秋」もいい。

「自尊」とは「自分を尊ぶ」ということ。

蛇笏の生涯を見れば、この、尊ぶ心が、世俗的・権勢的なものではないことは明らかである。

ひたすら生きた

さらに言えば、

ただただ俳句のために生きた

自分の生涯を高らかに肯定しているのである。

ところで、この句。

厳密に考えると、どういう意味かいまいちわからない部分もある。

「誰彼もあらず」とはどういう意味か?

誰も彼もいない

つまり、

誰もいない

という意味あいで考えれば、蛇笏の生涯を過ぎ去っていった人々、そういう人々が今はもうこの世にいない、あるいは、自分の傍にもういない、ということになろう。

ただ、こうとも考えられる。

誰でも彼でも関係ない

つまり、

自分は自分である。

という考え。

信じた道、信じた俳句の道をひたすら進むだけだ。

という自負である。

自尊の秋

ということを考えれば、後者であろう。

ただ、蛇笏最晩年の句と考えれば前者の意味もあろう。

つまり、この場合、両方の意味があると考えていいのではないか。

死を意識した蛇笏の胸中には、なつかしい人々の面影があっただろう。

「一天」とは残された自分の寂しさのような気もする。

そして、おのがひたむきに生き、俳句に賭けた人生を振り返っただろう。

この場合、「一天」は自分の人生の象徴にもなるだろう。

この二つの思いが、

誰彼もあらず

という言葉を生み出したのではないか。

そして、その命をいとおしむ心が「自尊の秋」である。

最晩年になっても、これほどの力強く、すがすがしい一句を生み出した、蛇笏の気力はすさまじい。

蛇笏翁、面目躍如の一句である。