今週の一句~十一月(十一月) 中村草田男

あたたかき十一月もすみにけり  中村草田男(なかむら・くさたお)

 

(あたたかき じゅういちがつも すみにけり)

 

「十一月」は冬の季語、「あたたかし」も冬の季語。

こういう句を「季重なり」(きがさなり)と言う。

一句の中に「季語」が複数入っているのである。

一般的に、「季重なり」はよくない、避けるべきと言われる。

しかし、

 

目には青葉山ほととぎす初鰹   山口素堂

 

は「青葉」「ほととぎす」「初鰹」と夏の季語が三つも入っている「名句」である。

私の愛誦句、

 

身にしみて大根からし秋の風   松尾芭蕉

 

も「身に入む」(秋)「大根」(冬)「秋の風」(秋)と季語が三つもある。

松尾芭蕉も高浜虚子も、季重なりはたいした問題ではない、と述べている。

 

この句は、「あたたかき」がいい。

もう少し言うと「過去形」の表現がいい。

あたたかかった

という表現に、作者の心安らかな思いが感じられる。

冬の暖かな一日を「小春」「小春日和」と表現するが、この「小春」は十一月だけに使うべきで「小春月」とは十一月のことである。

それゆえに説得力がある。

 

あたたかき十二月

 

では、リズムももちろんよくないが「共感」という点で、ダメなのである。

今週の一句~芭蕉忌(ばしょうき) 野村喜舟

芭蕉忌や遅れ生まれし二百年  野村喜舟(のむら・きしゅう)  

(ばしょうきや おくれうまれし にひゃくねん)

松尾芭蕉が亡くなったのは元禄7年10月12日。

新暦では11月29日であった。

そして今年は11月19日…つまり「今日」が芭蕉忌である。

松尾芭蕉が凄いことは誰もが知っているが、では、いったいどんな功績があるのだろうと考えると、答えられる人は少ないのではないか。

もちろん様々あるが、私は、

かるみの実践

と、

高悟帰俗(こうごきぞく)の実践

にある、と考える。

 

まず「かるみ」だが、簡単に言えば、

和歌、漢詩、諺などにもたれかからず「17音」で独立した「詩の世界」を完成させた。

ということである。

(「かるみ」については二説あり、そういうものではなく、「軽々とした詩境」をいうのである、という説もあるが、その説は私は取らない。)

芭蕉以前の俳諧は「和歌」「漢詩」「諺」などを念頭とし、それをひねった…つまり茶化した言葉遊びの文学だった。

 

芭蕉の、

古池や蛙飛び込む水の音

は、最初「蛙飛び込む水の音」だけが出来、上五に悩んでいた。

一番弟子の宝井其角は「山吹や」を提案した。

山吹や蛙飛び込む水の音

其角の意図は、

かはづなくゐでの山吹ちりにけり花のさかりにあはまし物を   よみ人しらず

都人きてもをらなむ蛙なくあがたのゐどの山ぶきのはな     橘公平女

忍びかねなきて蛙の惜むをもしらずうつろふ山吹のはな     よみ人しらず

澤水に蛙なくなり山吹のうつらふかげやそこにみゆらむ     よみ人しらず

みがくれてすだく蛙の諸聲に騒ぎぞわたる井手のうき草     良暹法師

沼水に蛙なくなりむべしこそきしの山吹さかりなりけれ     大貳高遠

山吹の花咲きにけり蛙なく井手のさと人いまやとはまし     藤原基俊

九重に八重やまぶきをうつしては井手の蛙の心をぞくむ    二條太皇太后宮肥後

山吹の花のつまとはきかねども移ろふなべになく蛙かな     藤原清輔朝臣

かはづなくかみなびがはにかげみえていまかさくらん山ぶきの花 厚見王

あしびきの山ぶきの花ちりにけり井でのかはづはいまやなくらん 藤原興風

など、和歌では「山吹」と「蛙鳴く」は「セット」だったのだ。

其角はそれを踏まえ、

あらら、この蛙は鳴かないで、水に飛び込んじゃったよ!

と「パロディ」にして見せたのである。

このことからも「俳諧」は「和歌」のパロディであったことがある。

私はこの取り合わせに其角の切れ味を感じるが、ご承知の通り、芭蕉は、それを採用せず、ただ、

古池や

とした。

これが「和歌」「漢詩」などのアンチテーゼから脱却した「蕉風俳諧開眼」の瞬間である。

 

もう一つの「高悟帰俗」。

これは芭蕉の言葉、

高く心を悟りて俗に帰るべし(服部土芳『三冊子』より)

という俳諧精神の確立である、

俳諧の本質は、

雅俗混合(がぞくこんごう)

である。

一句の中に「雅なもの」「俗なもの」とが混在していることである。

「おきれいごとだけではいけない」「俗なだけではいけない」ということである。

詩心は常に高く、しかし、俳諧に詠む題材は「俗」から離れてはいけない。

ということである。

これが、雅な「やまとことば」で「雅な世界」を詠う「和歌」と一線を画しているのである。

極端に言えば、和歌は「うぐいす」は詠うが、「犬の糞」などは詠わない。

雅ではないからである。

しかし、俳諧は「うぐいす」も詠えば「犬の糞」も詠う。

そして、それを「詩」にしてみせる。

これが「俳諧」の素晴らしさ、芭蕉俳諧の素晴らしさである。

 

昨今、俳諧、俳句における「アニミズム」が注目されているが、「アニミズム」とは簡単に言えば、

あらゆるものに神聖なものを見い出す姿勢

である。

美しいもの、美しくないもの、高貴なもの、俗なもの、すべて「平等」に生命の尊さ、輝きがあるという考えだ。

すべて平等に生命の尊さを認め、詩としての「美」を見い出したのが芭蕉であった。

 

て、掲句。

野村喜舟(明治19年(1886)~昭和58年(1983))は石川県金沢市生まれ。

本名は喜久二(きくじ)。

幼児期に東京に移り浅草、小石川に住んだ。

小石川砲兵工廠に就職し、転勤の為、福岡県小倉(現・北九州市小倉区)に移住し、終戦とともに退職し、以後は小倉に住んだ。

42年より夏目漱石門下の松根東洋城の指導を受け、東洋城の「渋柿」創刊時に課題詠選者として参加している。

昭和27年、東洋城引退後の「渋柿」主宰に就任。

同じく伝統俳句を標榜する高浜虚子の「ホトトギス」とは一線を画し、〝松尾芭蕉直結〟の精神を提唱した東洋城の意志を継ぎ、活躍した。

東洋城が雄大な風景句を得意としたのに対し、生活や人情などの人事句の名手、連句の名手として知られる。

句集に『小石川』『紫川』『喜舟千句集』などがある。

私は、喜舟は、久保田万太郎と並ぶ俳句の天才だと思っている。
この人のことはもっともっと顕彰されていい。

「二百年」というのが面白い。
芭蕉が生まれたのが寛永21年(1644)、喜舟が生まれたのが明治19年(1886)、だいたいの「200年」である。

私もそうだが、多くの俳人にとって芭蕉は永遠の憧憬である。

喜舟だったら芭蕉先生も舌を巻くような作品を作ったに違いない。
「遅れ生まれし」にはそんな喜舟の自負ものぞけるが、「200年」というのが味噌で、そんなに遅れて生まれてはどうにもならない…というユーモアがあるだろう。
茶目っ気と言ってもいい。

正岡子規、高濱虚子の「ホトトギス」とは一線を画し、「芭蕉直結」…芭蕉の俳句をただひたすら目指したのが、「渋柿」派の俳句であり、喜舟の師・松根東洋城の俳句であり、喜舟の俳句である。
私はこの人は「かるみ」最後の人だと思っている。
久保田万太郎も草間時彦などにも「かるみ」の傾向は見られるが、芭蕉の「かるみ」とは少し違う。
喜舟の「かるみ」は芭蕉の「かるみ」そのままであるように思える。

 

年は芭蕉が亡くなって325年である。

 

今週の一句~炬燵(こたつ) 正岡子規

われは巨燵君は行脚の姿かな   正岡子規(まさおか・しき)

(われはこたつ きみはあんぎゃの すがたかな)

 

この句の眼目、面白さは「君」という一語にある。

この「君」とは誰のことか、ご存じだろうか。

これは、

松尾芭蕉

のことである。

掛け軸、あるいは書物であろう。

冬の寒い一日、ぬくぬくと炬燵に入りながら、子規はそれを眺めている。

そこには、(おそらく奥の細道の)旅へと向かう芭蕉の姿が描かれていたのだ。

 

「行脚」とは僧侶が修行または布教の為、諸国を旅すること。

そこから派生して、ある目的で諸地方を巡り歩くこと、とりわけ、詩歌人が、諸国を巡り歩くことを意味するようにもなった。

芭蕉、小林一茶、種田山頭火を持ち出すまでもなく、俳諧師、俳人にとって行脚は最も大切なことだった。

余談だが、今、そのことを意識している俳人はまったくいない。

まあ、要するに「サラリーマン俳人」「行脚をしない俳人」ばかりになったわけで、(少なくとも私にとっては…)現代の俳句のつまらなさはそこにある。

 

さて、この句だが、子規が喀血した後か、その前かで、鑑賞はずいぶん違ってくるのではないか。

喀血前であれば、

おやおやあんた(芭蕉)はこの寒い中、旅に出るのかい。

僕は炬燵でのんびりさせてもらうよ…。

(あ~、あったかい)

となる。

喀血後であれば、

私にはもうあんたのように旅にでることが出来ないよ…。

となる。

 

ただ、この句が凄いのは、それだけではない。

芭蕉は、

旅は風雅の花

と言った。

風雅(ここでは俳諧のことだが…)に於いて、「旅」こそが最上のものだ、と言っている。

子規の心の中には、それが出来ない淋しさがある。

しかし、例え、旅に出られない身となっても、

あんたと同じ…、いや、それ以上の仕事をして見せる。

という覚悟を含んでいることだ。

あの高浜虚子でさえ、著書の中で、

俳句は芭蕉の文学

とはっきり言っている。

不心得者はともかく、俳諧・俳句史上に於いて、俳聖芭蕉を、

汝(なれ)

などとなれなれしく、対等に呼びかけた者はいない。

一茶などは、

芭蕉翁の脛をかぢつて夕涼

と詠んでいる。

芭蕉先生のおかげで、私はなんとかおまんまを食わせていただいています。

と述べている。

蕪村も一茶も虚子も、みな、芭蕉を崇めた。

しかし、子規だけは違った。

子規にとって芭蕉は、(変な言い方だが…)「悪友」のようなものだった。

そこに子規の凄さがある、と私は思う。

 

 

今週の一句~時雨(しぐれ) 吉田鴻司

しぐるるやしやぶしやぶ肉は近江牛       吉田鴻司(よしだ・こうじ)

(しぐるるや しゃぶしゃぶにくは おうみうし)

 

なんとなく、「おうみぎゅう」と言ってしまうが、本来は「おうみうし」と言うらしい。

「近江牛」はいわずとしれた「三大和牛」の一つ。

さぞ、美味だったであろう。

故・吉田鴻司「河」主宰代行の名吟。
ただ、この句は、僕くらいのレベルではどうにもうまく説明できそうもない。
ただ、(言訳になるが…)俳句は「韻文」であるから、本当にいい句というのは、「散文」では説明できないのである。

古池や蛙飛び込む水の音    松尾芭蕉

この句を散文で見事に解説したものは、かつて誰もいない。
それと同じである。
もともと「散文」で解説できるならば「韻文」である必要がないのだ。
いい句はつねに散文を「拒絶」する「孤高さ」がある。

こまかいことを言えば、「シ」音の連続、「しぐれの寒さ」から「しゃぶしゃぶの暖かさ」への「転換」、「しぐれ」という「雅」から「しゃぶしゃぶ」という「俗」への転換をなした「雅俗混合」だのテクニック的なことは言えるが、そういうことが本質ではない。

こういう風景を想像してみる。
初冬の頃、近江を旅し、その夜、近江在住の弟子あるいは俳友と会う。
その人は、師をもてなすため、地元で有名な「近江牛」の店へ案内した。
近江であるから、琵琶湖のほとりであろう。

夜はにわかに冷えてくる。
しばらくすると、格子の外からパラパラパラと雨音が聞こえてきた。

近江時雨ですな…。

と誰かがつぶやく。
感動したのだろう。

「時雨」とは簡単に言えば「冬のにわか雨」のことだが、ただ、それだけではない。
芭蕉の忌日を「時雨忌」というが、「時雨」には芭蕉を含め、和歌の時代以来、先人たちが愛し、磨き上げてきた「情緒」というものがある。

「時雨」は古今集依頼、詩歌人がもっとも大事にしてきた「雅」の一つなのだ。
日本酒の杯を交わしあえば、しゃぶしゃぶ鍋の湯も煮立って、豊かな湯気があふれてくる。

先生、さあ、どうぞ。

とすすめられ、近江牛を湯につける…。

しぐるるやしやぶしやぶ肉は近江牛

この句は、

時雨の近江への、そして近江の弟子への「ご挨拶」。
近江牛という豊かな食を育てた近江の風土へのご挨拶である。

そして、

一期一会の縁のありがたさ
もてなしの心への感謝

…そういうものすべてを含めた近江の「国誉めの句」なのである。

今週の一句~秋(あき) 与謝蕪村

笛の音に波もよりくる須磨の秋    与謝蕪村(よさ・ぶそん)

(ふえのねに なみもよりくる すまのあき)

 

元禄2年、松尾芭蕉は「おくのほそ道」の旅に出て、福井県敦賀市種の浜(いろのはま)を訪ね、

寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋

と詠んだ。

寂しさが勝っている

というのも変なものだが、芭蕉にとって、或いは「風狂の徒」にとって、「寂しさ」というのは、むしろ大事なものだったのかもしれない。

芭蕉の句でわかるように、

寂しさ

というと「須磨」だった…というか、「須磨」が代表的な景勝地であった。

何度も書くが、「寂しい」というのは、むしろ「素晴らしい」ことなのである。

蕪村の句は、その「寂しさ」が根底にある。

この句の笛は、その時、聞こえた笛かもしれないが、

青葉の笛

をイメージしているだろう。

「青葉の笛」は平敦盛(たいらのあつもり)愛用の笛である。

一応、紹介しておくと、この笛はもともと弘法大師(空海)が唐の国(今の中国)へ留学した時、唐の都・長安の青龍寺の竹(天笠の竹)で作ったものと言われている。

帰国した弘法大師は、これを嵯峨天皇へ献上し、嵯峨天皇は「青葉の笛」と名付けた。

その後皇族から平家の手に渡り、笛の名手であった敦盛へ渡った、と言われている。

源平合戦の折、敦盛は17歳で一ノ谷…つまり須磨近辺で行われた戦いに参加した。

平家は源義経率いる源氏軍の奇襲を受け、敦盛は、騎馬で海上の船に逃げようとしたが、敵将・熊谷直実に、

敵に後ろを見せるのは卑怯!戻れ!

と呼び止められ、討ち果たされた。

このシーンは源平合戦の名場面とされ、『平家物語』はじめ、能の『敦盛』、幸若舞『敦盛』や文楽や歌舞伎にも取り上げられている。

句の中の「波」は源平合戦の頃の波へとつながる。

また、『源氏物語』へもつながる。

いうなれば、この句は日本の詩歌人の心を凝縮した一句と言えるだろう。

 

 

今週の一句~蓑虫(みのむし) 高浜虚子

蓑虫の父よと鳴きて母もなし    高浜虚子

 

(みのむしの ちちよとなきて ははもなし)

 

蓑虫が鳴くことをご存知であろうか?

実は蓑虫は、

チチヨ チチヨ

と鳴く。

もちろん、嘘である。

ただ、古来より、そう鳴くと言われて来た。

蓑虫は別名「鬼の子」「鬼の捨て子」と呼ばれている。

清少納言『枕草子』には、

蓑虫、いとあはれなり

鬼のうみたりければ

という一文がある。

いくつかの歳時記や辞書を当たってみたが、「鬼の子」「鬼の捨て子」という名の由来は、この「枕草子」の一文が由来している、と書いてある。

これは清少納言の創作だろうか、或いは、当時、そのようなことが広く言い伝えられていたのだろうか。

それに調べてみると、「枕草子」の原文を見つけた。

蓑虫、いとあはれなり。

鬼の生みたりければ、親に似てこれも恐ろしき心あらむとて、親のあやしき衣ひき着せて、

「今、秋風吹かむをりぞ、来むとする。侍てよ」

と言ひ置きて逃げて去にけるも知らず、風の音を聞き知りて、八月ばかりになれば、「ちちよ、ちちよ」と、はかなげに鳴く、いみじうあはれなり。

意訳するとこういうことになるだろう。

蓑虫は憐れである。

蓑虫は鬼が生んだ子で、親鬼は、

「この子も、自分と同じように恐ろしい心を持っているだろう」

と畏れ、みすぼらしい衣を着せ、

「秋風が吹く頃、戻ってくるから、ここで待っていろ。」

と言い聞かせて、逃げ去ってしまった。

そんなことも知らず、蓑虫はひたすら風の音を聞き、秋になれば、

「父よ 父よ」

儚い声を挙げて鳴くのである。

その様子はとくに憐れをさそう。

この背景を知れば、虚子の、この句の哀れさが胸を打つ。

「父よ 父よ」と鳴いているが、お前には母もいないのだ…。

と言っている。

秋風に揺れる蓑虫の姿はどことなく、儚げで、何より「蓑」(枯葉)を纏っているというのが不可思議で、こういう創作が生まれたのだろう。

 

今週の一句~椋鳥(むくどり) 小澤 冗

椋鳥の賑はうて子の帰る頃    小澤 冗(おざわ・じょう)

 

「季寄せ」を読むと、大群をなして移動する鳥で、椋の実をついばむのでこの名がある、と書いてあった。

椋は成長が早く、大木になりやすい。

初夏に花が咲き、秋になり熟すと黒褐色の実をつける。

味は非常に甘く、美味である、という。

しかし、最近の椋鳥というと、駅前や繁華街の街路樹に大群で宿る鳥…というイメージがある。

その様は異常で、近くにいると恐ろしささえ感じる。

今や、秋、冬の都会の風物詩となっている。

 

掲句。

上記のような夕暮の風景であろう。

夕暮れの椋鳥の賑わう樹木の空を見上げている。

秋の夕ぐれは早い。

仕事や学業を済ませた子供たちもそろそろ家に帰ってくるころである。

そう考えれば、この寒々とした夕空もあたたかく感じる。

今、大きく騒いでいる椋鳥も、「わが家」に帰って来たのである。

「椋鳥」の賑わいも、今日一日を無事に過ごした家族の喜びの声かもしれない。

こうして考えると、生きとし生けるものすべてに「帰るところ」は必要なのだな、とあらためて思う。

 

 

今週の一句~秋(あき) 飯田蛇笏

誰彼もあらず一天自尊の秋       飯田蛇笏

 

(たれかれも あらず いってん じそんのあき)

 

蛇笏77歳での作。

この年に蛇笏は亡くなったので、ある意味、辞世の句と考えてもいい。

「秋の天」を詠んだ句で、これほど格調高く、抜けるような秋の青空を詠んだものは他にない。

「一天」というのがいい。

例えば、これを「青空」「大空」とかに変えてみても一句としては成り立つ。

しかし、この漢詩的表現である「一天」が格調高く、硬質な響きが一句に満ちている。

「青空」や「大空」では詩的空間が「横」に広がってしまうが、「一天」は「縦」に貫いてゆくような鋭さがある。

それが「秋」にはよく似合うと思うのである。

さらに言えば「自尊の秋」もいい。

「自尊」とは「自分を尊ぶ」ということ。

蛇笏の生涯を見れば、この、尊ぶ心が、世俗的・権勢的なものではないことは明らかである。

ひたすら生きた

さらに言えば、

ただただ俳句のために生きた

自分の生涯を高らかに肯定しているのである。

ところで、この句。

厳密に考えると、どういう意味かいまいちわからない部分もある。

「誰彼もあらず」とはどういう意味か?

誰も彼もいない

つまり、

誰もいない

という意味あいで考えれば、蛇笏の生涯を過ぎ去っていった人々、そういう人々が今はもうこの世にいない、あるいは、自分の傍にもういない、ということになろう。

ただ、こうとも考えられる。

誰でも彼でも関係ない

つまり、

自分は自分である。

という考え。

信じた道、信じた俳句の道をひたすら進むだけだ。

という自負である。

自尊の秋

ということを考えれば、後者であろう。

ただ、蛇笏最晩年の句と考えれば前者の意味もあろう。

つまり、この場合、両方の意味があると考えていいのではないか。

死を意識した蛇笏の胸中には、なつかしい人々の面影があっただろう。

「一天」とは残された自分の寂しさのような気もする。

そして、おのがひたむきに生き、俳句に賭けた人生を振り返っただろう。

この場合、「一天」は自分の人生の象徴にもなるだろう。

この二つの思いが、

誰彼もあらず

という言葉を生み出したのではないか。

そして、その命をいとおしむ心が「自尊の秋」である。

最晩年になっても、これほどの力強く、すがすがしい一句を生み出した、蛇笏の気力はすさまじい。

蛇笏翁、面目躍如の一句である。

今週の一句~芋煮会(いもにかい) 水原秋櫻子

月山の見ゆと芋煮てあそびけり   水原秋櫻子

 

(がっさんの みゆと いもにて あそびけり)

 

季語は「芋煮会」。

仲秋の頃、東北地方では、河原に多くの人が集まり、

里芋

こんにゃく

などを鍋で煮込み、飲み食いをする。

東北と言っても、主に宮城県、山形県、福島県で行われていたが、最近では、広く知られるようになり、他の地域でも行われている。

実は、私も、今年、みんなで集まって「芋煮会」をやろうと企画している。

近年では、クレーンなどで「大鍋」を吊り、大量の芋煮汁を作る。

 

ところで「芋煮汁」は何をもって「芋煮汁」と言えるか。

調べた限りでは、「里芋」さえ入っていれば、「芋煮汁」と言えるらしい。

そもそも「里芋」はコメ不足、つまり「飢饉」に備えて作ったらしい。

きっと成育力が強く、比較的、簡単に育てることが出来たのであろう。

ただ、「日持ち」がしなかった。

里芋は痛みが早く、保存がきかない。
だから、今のうちに大量に食つちまえ…というのが「芋煮汁」の始まりである。
最近の芋煮汁はうまいが、もとはそういう食べ物なのである。
最近の芋煮汁で感心するのは、あれだけたくさんの具を入れながら、実に汁が澄んでいることである。
しかし、初期の、原型の「芋煮汁」はあんなに澄んではいまい。
現代の、地元の方々の努力の成果である。

 

掲句。

「月山」とあるから、山形での芋煮会風景である。

そばには最上川が流れている(…と考えたい)。

きっと、月山には、そろそろ雪が積もっているのではないか。

あの「雪」がやがて、平野に降り、辺り一面、雪となる。

「束の間」の秋を楽しんでいるのだ。

東北の祭りもそうだが、東北の行事には、季節を愛おしむという心が、満ち溢れている。

今週の一句~名月(めいげつ) 松尾芭蕉

名月や北国日和定めなき     松尾芭蕉

 

(めいげつや ほくこくびより さだめなき)

 

ふりかえってみると先週は、

9月17日(月) 村上鬼城忌

9月18日(火) 石井露月忌

9月19日(水) 正岡子規忌

9月20日(木) 中村汀女忌

9月21日(金) 宮沢賢治忌

そして、

9月23日(日)は秋彼岸

9月24日(月)は十五夜

である。

どの季語も重要であるが、とりわけ「十五夜」は感懐深い。

俳句に限らず、日本の古今の詩歌人にとって最も重要な日の一つ、と言っていい。

西行が、

花(桜)に狂った詩人

であれば、芭蕉は、

月(名月)に執した詩人

ではなかったか。

わかる限り、芭蕉の名月を詠った句を挙げてみる。

 

けふの今宵寝る時もなき月見かな

月はやしこずゑハあめを持ながら

寺に寝て誠がほなる月見かな

賎のこやいね摺かけて月を見る

いものはや月待さとの焼ばたけ

名月や池をめぐりて夜もすがら

名月の夜やおもおもと茶臼山

夏かけて名月あつきすずみかな

明月の出るや五十一ヶ条

名月の見所問ん旅寝せむ

月見せよ玉江の蘆を刈ぬ先

あさむつや月見の旅の明ばなれ

月に名を包みかねてやいもの神

義仲の寝覚の山か月悲し

中山や越路も月ハまた命

国々に八景更に気比の月

月清し遊行のもてる砂の上

月のみか雨に相撲もなかりけり

月いづく鐘は沈る海のそこ

ふるき名の角鹿や恋し秋の月

明月や座にうつくしき皃もなし

名月や門に指くる潮頭

名月に麓の霧や田のくもり

名月の花かと見えて綿畠

今宵誰よしよし野の月も十六里

名月はふたつ過ても瀬田の月

 

もっとたくさんあるのだが、疲れたのでこのへんにしておく。

名月や池をめぐりて夜もすがら

という句を見た時、私は正直、

おおげさな…。

という気持もあった。

名月を見るために徹夜した!

と言っているのだ。

そんな馬鹿な…と正直思った。

しかし、調べてみると、

けふの今宵寝る時もなき月見かな

という句もある。

これは、

寝ないで名月を眺めるぞ~。

と言っている。

 

芭蕉の五大紀行文と言われているうちに、

鹿島紀行

更科紀行

は、その地で「名月」を見るための「旅」である。

また、「おくのほそ道」の冒頭、みちのくの旅への思いを綴った箇所に、

松島の月まづこころにかかりて

というのがある。

名月ではないが、芭蕉がみちのくを旅する前、まず心に描いた風景が「松島の月」だったのである。

 

さて、掲句。

私はこの句が年々好きになっている。

北国(福井県敦賀)の日よりは不安定だな~。

昨夜はあんなに晴れて、きれいな月が見れたのに、今宵の満月は見られそうにない…。

とつぶやいているのだ。

大げさな言い方ではなく、芭蕉は、

名月を見ることに命を懸けていた

のである。

そう思えば芭蕉の無念さがひしひしと伝わってくる。

 

ただ、芭蕉の凄いところは無念さを詠みながら、それだけで終わらないところだ。

この句にも北国の生々流転の、雄大で、力強い雲の動きが見えてくるようではないか。