今週の一句~春暁(しゅんぎょう) 飯田龍太

春暁のあまたの瀬音村を出づ    飯田龍太(いいだ・りゅうた)

 

(しゅんぎょうの あまたのせおと むらをいず)

 

龍太の故郷、山梨県笛吹市の風景であろう。

春の朝早くの早瀬の音は清廉そのものであろう。

しかし、この句にはどこか哀切がある。

それは「村を出づ」という表現にある。

深読みをすれば、自分はこの村を離れることが出来ない、という寂しさが、この句にある。

瀬音の音が清廉であればあるほど、作者の心を胸打つのではないだろうか。

 

今週の一句~春の空 坪内稔典

ゆびきりの指が落ちてる春の空     坪内稔典(つぼうち・ねんてん

 

(ゆびきりの ゆびがおちてる はるのそら)

 

「指」というと、この句と、

 

秋風やひとさし指は誰の墓     寺山修司

 

を思い出す。

どちらも一読、ドキッとする。

「季語」の付け方が、この作者たちの違いを浮き彫りにしている。

寺山の句の「秋風」は、どこか「憂鬱」で、寺山俳句の詩情を象徴している。

 

稔典さんの「春の空」は明るい。

もちろん、一句全体が明るいわけではない。

ただ、「春の空」が憂鬱だの、淋しさだの、そういう深刻さを打ち消している。

「ゆびきりの指が落ちている」という深刻さをだ。

 

稔典さんの俳句というと、「意味」や「詩情」より「調べ」を優先しているよう思える。

が、こういう句を見ると、やはりそれだけではない。

きっと稔典さんの句には、深い思索があり、それを極限まで「か細く」して、俳句の醍醐味である「軽い調べ」に乗せる。

それが稔典俳句の一つの手法ではないか。

今週の一句~春風 夏目漱石

春風の吹かれ心地や温泉の戻り   夏目漱石

 

 

(はるかぜの ふかれごこちや ゆのもどり)

 

この句を見ると、いつも「坊っちゃん」の一節を思い出す。

 

何を見ても東京の足元にも及ばないが、温泉だけは立派なものだ。

 

東京から、数学教師として松山へ赴任した「坊っちゃん」は道後温泉をすっかり気に入り、毎日のように温泉へ通う。

その温泉帰りの坊っちゃんの心持を詠んだようである。

 

この句は「吹かれ心地」という言葉がいい。

あとは「はるかぜ」「温泉の戻り」と、普通…というかありふれた言葉である。

「吹かれ心地」こそがこの句に命を吹き込んでいる。

「吹かれ心地」とはどんな心地だろう、と思うが、なんとなく、誰もが想像出来る。

きっと、そこがいいのだ。

今週の一句~春来たる(はるきたる) 福永耕二

鱈の海濁るは春の来つつあり   福永耕二(ふくなが・こうじ)

 

(たらのうみ にごるははるの きつつあり)

 

「鱈」は冬の季語で、寒冷な海に生息する。

「鱈の海」とは東北、北陸あたりの日本海沿岸の海であろう。

この句の良さは「濁る」の一語であろう。

普通、春が近づけば、海がかがやくものである。

しかし、この海は「濁る」のである。

逆説的な表現によって、豊潤の海を表現することに成功した。

 

福永耕二は「馬酔木」編集長、「沖」同人として活躍し、水原秋櫻子に、

 

石田波郷の再来

 

と評価された逸材だったが、若くして亡くなった。

存命であれば今、80歳。

俳壇の重鎮として活躍していたことだろう。

 

今週の一句~春近し(はるちかし)  大谷句仏

春近き銀座の空を鴎飛ぶ    大谷句仏(おおたに・くぶつ)

 

(はるちかき ぎんざのそらを かもめとぶ)

 

 

大谷句仏は、大谷光演(おおたに・こうえん)で明治から大正にかけての浄土真宗の僧侶。

京都東本願寺第23代の法主である。

俳句は正岡子規、高浜虚子に学び、のちに独自の俳句の道を進んだ。

余談だが、東本願寺にしても、西本願寺にしても、法主は今も蓮如の子孫が継承している(…はずである)。

ということは「蓮如」の子孫ということになるだろう。

 

掲句。

まず、句の鑑賞より、銀座に鴎が飛んでいた、という風景に感嘆する。

今はそういう景色を見ることは出来ない。

考えてみれば昔、銀座から先は「海」だった。

海はどんどん奥へ奥へ埋め立てられていった。

銀座の先の「晴海」あたりに行けば、なんとなく「海の気配」を感じるが、いまや銀座に「海の気配」はない。

 

「銀座に鴎が飛んでいる」という景色が明るい。

おそらく私だけではないと思うが、「春近し」「春隣」などと聞くと、なんとなくウキウキした気分になる。

冬は冬でいいものだが、この寒さを考えると、春がもうすぐ…と思うと、明るい気分になる。

掲句はその情景が季語「春近し」とよく響き合っている。

「新宿」「渋谷」「池袋」など他の地と比べ、「銀座」には清潔感、高級感がある。

鴎の「白」が似合っている、と言っていいだろう。

 

今週の一句~雪(ゆき) 松尾芭蕉

 

馬をさへながむる雪の朝かな   松尾芭蕉

 

(うまおさえ ながむるゆきの あしたかな)

 

 

紀行文「野ざらし紀行」の中の一句。

 

旅人をみる

 

と「前書き」がある。

「野ざらし紀行」は芭蕉が「旅に生きる」と決めて最初の「旅」で、旅立ちに際し、

野ざらしをこころに風のしむ身かな

と、悲愴な思いを述べている。

ただ、名古屋あたりに着くと、だいぶ心が落ち着いてきている感がある。

名古屋には、芭蕉の門弟がたくさんいた。

芭蕉と名古屋の弟子たちは、「猿蓑」に先駆けて、「冬の日」という俳諧集を編纂した。

「おくのほそ道」のあと編纂された「猿蓑」は、蕉門俳諧の金字塔であるが、「冬の日」こそが蕉風俳諧確立の記念すべき俳諧集という評価がある。

いずれにしても、名古屋は芭蕉にとって、蕉門俳諧の重要な拠点のであり、心休まる地であっただろう。

掲句はその近辺での作。

 

掲句はまず「写生」が丁寧である。

雪が降ったから…かどうかはわからないが、馬がにわかにそわそわとしだした。

旅人はそれをなだめつつ、馬上から雪を眺めている…、そういう風景である。

「旅びとを見る」

とわざわざ前書きに書いているくらいだから、心に残る風景だったのだろう。

時代劇のワンシーンを見ているかのような、静謐で、趣の深い一句である。

 

 

 

 

今週の一句~福引(ふくびき) 菊地悠太

福引やイオンモールの午後にをり    菊地 悠太(きくち・ゆうた)

 

(ふくびきや イオンモールの ごごにおり)

 

都市近郊には、いまや必ず、広大な敷地に建つ「イオンモール」がある。

ここではショッピングを始め、飲食街、エステサロン、スポーツジムなどなど…。

ここなら一日、いや、広いところなら一日では回りきれないほど、様々な店舗や施設がある。

実に楽しい施設ではあるが、一方で、どの地域も、同じような風景になり、同じような家族の風景でもある。

そのことに少し、虚しさを感じないでもない。

 

掲句。

お正月風景である。

お正月というだけでも賑わいを感じるが、いろいろな店で行われる「福引」は、さらに混雑と賑わいを感じさせる。

掲句は「午後」というのがいい。

華やぎとけだるさがある。

おそらく、作者は「福引」にははしゃぐわけでもなく、淡々と周りの風景を眺めている。

その根底には、上記のような、現代のむなしさがある。

今週の一句~花八つ手(はなやつで) 中村草田男

八ツ手咲け若き妻ある愉しさに   中村草田男

 

(やつでさけ わかきつまある たのしさに)

 

 

最近は「シクラメン」「ポインセチア」など、冬でも目を楽しませてくれる草花が増えた。

…が、本来、冬は花のとぼしい季節である。

そんな中、(必ずしもそうではないが…)冬の日差しを浴びて咲いているのが花八つ手である。

 

草田男の結婚に関するエピソードは面白い。

俳人協会編の「脚注名句シリーズ 中村草田男」(だったと思うが…)にいくつか紹介されている。

今、その本が見つからないので、うろ覚えで書くが、草田男は10回以上の見合いをした、という。

そして最後に出会ったのが「直子夫人」であった。

ご息女の中村弓子さんに聞いた話だと思うが、お見合いの次の日、草田男は直子宅を突然訪れ、両親や直子さんに熱烈に結婚を申し込んだ、という。

この句は、

 

咲け

 

という言葉がいい。

心が豊かに弾んでいる。

とはいえ、冬の花八つ手である。

向日葵や薔薇ではない。

どこか静かに幸福を噛みしめている作者の心の安らぎも伺える。

この半年後だが、所用で家を空けた妻へ、草田男は、

 

妻二タ夜あらず二タ夜の天の川

 

の名吟を送った。

今週の一句~クリスマス 秋元不死男

へろへろとワンタンすするクリスマス   秋元不死男(あきもと・ふじお)

(へろへろと わんたんすする くりすます)

 

この句に出会った時の衝撃は忘れられない。

いわゆる「二句一章」ではあるが「一つの意味」として成立している。

 

聖夜に(おそらく一人で…)「へろへろ」と「ワンタン」を啜っている、という光景を詠んだものだが、「へろへろとワンタンをすする」と「クリスマス」との「二句一章」というり「二物衝撃」がまさしく「衝撃」だった。

 

いうまでもないが、聖夜は七面鳥(あるいはチキン)やケーキを食べるものである。

しかし、この作者は「ワンタン」を食べている。

しかも「ヘロヘロ」と情けなく…である。

ここから、一人寂しく聖夜を過ごす、中年男(?)のわびしい姿が浮かぶ。

 

しかし、どうであろうか。

これは、この人だけの特別な世界であろうか?

今は楽しい聖夜を過ごしている人も、過去には(さすがにワンタンは啜らないまでも…)、そんな寂しい聖夜を過ごしたことがあるのではないか。

また、今、そういう状況の人もいるかもしれない。

そういう意味ではこの句には「普遍性」…というと大げさだが、「共感」出来るものがある。

 

また、この句には、日本人の「クリスマス狂騒」への冷めた視線も感じる。

聖夜の意味を、どれだけの日本人が理解しているかどうか。

そういうことを考えると、作者は、ワンタンをすするという「日常」を、クリスマスに「ねじ込んだ」とも言える。

 

それにしても「ワンタン」と「クリスマス」を取り合せた力量にも感心するが、「へろへろ」というのがいい。

ある意味、これも立派な「写生」だ。

たしかに「ワンタン」はへろへろとすするものである。

 

 

 

今週の一句~義士の日(ぎしのひ) 吉田鴻司

義士の日のいつとはなしの円座かな  吉田鴻司(よしだ・こうじ)

 

(ぎしのひの いつとはなしの えんざかな)

 

旧暦12月14日は大石内蔵助の播磨赤穂の浪士47名が、江戸両国の吉良上野介邸へ討ち入りをした日である。

元禄15年(1702)のことである。

昔はこの時期、必ずどこかのテレビ局がテレビドラマを制作し、放映していたが、私の知る限りでは、今年は一つも放映されていなかった。

時代であろう。

ただ、ちょっと前までは「12月14日」といえば必ずドラマ放映がされ、見ているほうもちょっと食傷気味だったし、製作するほうもネタ切れになっていたような気がする。

今は「小休止」と考えればいいのではないか。

 

掲句。

「円座」が効果的だし、「いつとはなしの」の表現も心憎い。

酒盛りをしているうち、話に夢中になり、いつのまにか円座を組んで話し込んだ…という風景。

その時ふと、かつて赤穂浪士の討ち入りの密談も、こんな感じだったのではないか、と思ったわけだ。

 

「円座」という言葉には「絆」を感じる。

初対面の人同士で「円座」は想像しにくい。

作者を考えれば、これはきっと気の知れた仲間たちとの「俳句」に関する熱い議論だったのだろう。

俳句の議論にしても、討ち入りの密談にしても、共通しているのは「熱い志」である。

 

ところで、この「義士の日」だが、先ほども言ったように「12月14日」であり、他に「義士会」「討ち入りの日」などとも言う。

似たような季語に

 

義士祭

 

というのがある。

これは「春」の季語で、4月1日から7日まで、赤穂浪士の墓がある港区泉岳寺で行われる行事である。

よく混同して、この時期に「義士祭」として、句を出す人がいるので、句会でも注意してきたが、最近は、12月14日を「義士祭」とする場合もある。

なにより、泉岳寺自体が12月14日に「義士祭」を開催するようになったのだ。

また、人から聞いた話だが、兵庫県赤穂市でも12月14日に「義士祭」を開催しているらしい。

そうなると「義士祭」も12月14日と考えても間違いではなくなってきた。

季語も少しずつ変わってゆくのだろう。